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住民ら食料や防寒具譲る
台湾少年工75年の友情(3)生命救った「高座の情」

社会 | 神奈川新聞 | 2018年10月19日(金) 10:37

食堂で食事をとる台湾少年工
食堂で食事をとる台湾少年工

 太平洋戦争中、米軍の潜水艦が跋扈(ばっこ)する海を渡った台湾の少年は、座間市の高座海軍工廠(しょう)で働き、大和市上草柳の寮で寝泊まりした。ただ、当初は高座の工場が本格的に稼働していなかったため、彼らの職場はなく、一部は愛知や群馬、広島など全国各地の工場に派遣された。零式戦闘機「ゼロ戦」、夜間戦闘機「月光」、爆撃機「一式陸攻」の生産に携わった。高座に残った少年たちは局地戦闘機「雷電」を造った。

 工廠はフル稼働すれば工員数3万人、年間生産6千機という大規模なものだった。工廠で働いていたのは台湾人だけではなかった。大和、綾瀬、伊勢原などで生まれ育った地元の少年少女もいたし、大学生もいた。後の大作家・三島由紀夫や、「フジヤマのトビウオ」で知られる水泳の名選手・古橋広之進も勤労動員された。

 三島は後に自伝的小説「仮面の告白」で当時を振り返り、こう記している。「工場を疎開するための大きな横穴壕を、台湾人の少年工たちと一緒に掘るのであった。この十二三歳(原文ママ)の小悪魔どもは私にとってこの上ない友だった」

 ■ ■ ■

 南国・台湾から来た少年たちには寒さがこたえた。丹沢の山々から吹いてくる「丹沢おろし」の風のせいで、冬は特に冷え込んだ。同窓組織・台湾高座会の何春樹副理事長(89)は「暖かい台湾では冬服は必要なかった。だから、日本に来た時も誰も持っていなかった」。日本人同様の流ちょうな日本語で話す。あかぎれ、しもやけが悪化し、医薬品不足から麻酔なしで手術せざるを得なかった。「麻酔なしの手術。痛くて泣いた」。思い出すと戦後73年たった今でも涙が目に浮かぶ。

 そして、鉄拳制裁の嵐が吹き荒れていた。軍属である少年工は生活の全てが軍隊式だった。小さなミスでもすぐにビンタが飛んだ。「大人が子どもを殴るんだ。痛くないわけがない」

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