「高雄の港で両親が『こんな小さな子どもたちを戦地に送るなんて』と泣きながら見送った」。元台湾少年工の男性(89)は涙を流し、75年前を振り返った。
太平洋戦争中の1943年から44年にかけて、日本統治下の台湾から10代の少年たち約8400人が直線で2千キロ離れた旧日本海軍の戦闘機工場「高座海軍工廠(しょう)」(座間、大和市)を目指し、海を渡った。
工廠に隣接する厚木基地は首都・東京を守る空の要塞(ようさい)。局地戦闘機「雷電」の生産を担うためだった。フル稼働すれば工員数3万人、年間6千機を生産する国内最大規模の工場だった。
日本海軍は守勢に回り、制海権を奪われかけていた。船は米軍の潜水艦を避けるため、大きく遠回りした。多くが国民学校(当時の小学校)やその高等科を出たばかり。12~15歳の少年たちにはむごすぎる命を賭けた大冒険だった。
■ ■ ■
徴兵で日本本土の男性が軍隊にとられた結果、軍需工場でさえ労働力が不足。海軍は日本統治下で日本語教育が行われていた台湾の少年に期待をかけたのだった。
少年工の募集には好条件が付いた。当時の台湾も日本同様、生活が貧しく、多くの優秀な少年たちが経済的な理由で進学を諦めていた。軍国教育で軍人が憧れだった時代に、工廠の工員は軍属だった。そして、給料と衣食住だけでなく、工廠では上級学校と同等の数学や英語といった授業もある。
国民学校の高等科を卒業した人は3年間働くと工業学校の卒業資格がもらえる。さらに、旧制中学校(現在の高校以上)の卒業者であれば高等工業学校の卒業資格を取得でき、航空機技師になれる。「働きながら学び、身を立てよう」。少年たちの心は燃え上がった。
さらに、学校の先生たちも背中を押した。ある元少年工の男性は「昔の先生は今よりもはるかに尊敬され、権威もあった」と話す。放課後、自宅に優秀な児童を集めて勉強を教えたり、身銭を切って上級学校への学費を工面したりする先生がいたからだ。「その先生に勧められたら、『嫌です』とは言えなかった」
「(台湾でも徴兵が始まり)いずれ兵隊にとられる。その前に軍属となろう」と考える人もいた。単純に大都会・東京を見たいという「憧れ」のような理由の人もいた。
志願の理由は十人十色であったが、少年たちはこぞって応募し、選抜試験に挑んだ。
昨年1月に亡くなった元少年工の呉春生さん=享年(88)=は戦後も日本に残り、日本国籍を取得し、大和市に住み続けた。生前、「当時の級長は成績がとても優秀じゃないとなれなかったんだ」と自身が級長に選ばれた時の感激を語っていた。
「ところが、工廠に来てみると、級長経験者がごろごろいて、驚いたよ」と豪快に笑っていた。