明治時代に外国人の行動範囲を定めるために設置された測量標石に光が当てられようとしている。在野で進む調査をもとに、県教育委員会が文化財としての保存を検討。他の開港地に先駆けた取り組みで、関係者は近代化の歩みを伝える歴史資源にすると同時に、関東大震災の影響など多角的な研究の一歩にと期待を寄せている。
標石は、19世紀末まで横浜近郊で効力を発していた「外国人遊歩規程」にまつわる。外国人が自由に往来できる範囲として定められた開港場からの10里(約40キロ)を正確に測るため、内務省地理寮(現在の国土地理院)が1876(明治9)年3月から約10カ月かけて測量を実施。その際、各測点に約30センチ四方の標石が設置された。
現在の横浜市保土ケ谷区藤塚町にあった1号点から小田原市早川の60号点までの本点60カ所と補助点8カ所の計68カ所。1辺2~3キロの三角をつくりながら東西を帯状につないでいる。
測量史研究家で、英国王立地理学会フェローの上西勝也さん(京都市)によると、特定位置間の距離計測を目的とした三角測量は日本の測量史上初めての試みだったとされる。多くが見通しの良い山頂付近にあり、後の植林で根の下に埋もれたものも少なくない。だが、1世紀以上の時を経て黎明(れいめい)期の足跡を掘り起こしたのは現代の測量士たちだった。
業務の中で標石を知った県土地家屋調査士会の田村佳章さん(45)ら有志が上西さんと協力。衛星利用測位システム(GPS)など現代の測量技術を活用し、本点27カ所が現存していることを確認した。良好な状態が保たれているものも多いという。
「当時の技術の高さに驚いた。ほぼ正確に測量されており、ピンポイントで探し当てたときはロマンを感じた」。田村さんは先人の技に感嘆の声を上げる。
ただ、100年余りの間に、測量技術の進歩だけでは語れない差異も見られた。田村さんは、さらなる研究の必要があるとした上で「西と東でひずみが起きている。関東大震災で、震源に近い方に引っ張られているのではないか」と推察。未発掘の標石が日の目を見ることで、全容解明に近づくと使命感を燃やす。
県教委は今後、地元市町、専門家と連携し歴史的経緯や文化財的価値を調査する方針。上西さんは「遊歩規程測量では地図は作製されず、証拠として標石が残っているため、現場から移動させずに保存することに意義がある」としている。