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横浜大空襲75年
疑念なき皇国少年 父を亡くしてなお ゆりはじめさん

社会 | 神奈川新聞 | 2020年5月29日(金) 09:24

文芸評論家 ゆりはじめさん(87)大空襲で父を亡くし、自身も意識を失った。「周囲の家並みは全て燃えていた」=横浜市神奈川区
文芸評論家 ゆりはじめさん(87)
大空襲で父を亡くし、自身も意識を失った。「周囲の家並みは全て燃えていた」=横浜市神奈川区

 市街地に対する無差別の焼夷(しょうい)弾攻撃で8千人以上ともいわれる死者を出した1945年5月29日の横浜大空襲から、75年が経過した。横浜に生まれ育った文芸評論家のゆりはじめさん(87)=静岡県西伊豆町=は、この空襲で53歳の父を亡くした。だが故郷の破局と肉親の死別を経てなお、少年を支配していたのは少国民─年少の皇国民として国に殉ずる精神だった。戦争への疑念はなかった。

 家並みは一様に炎を上げていた。真っ赤に焼けたトタン屋根が、どこかの居間に据えられていただろうラジオが、強風にあおられ宙を舞っていた。街路に充満した煙を吸い、熱に閉じ込められ、12歳だったゆりさんは気を失った。1時間半ほどたったころだろうか、意識を取り戻すと、傍らの父は既に息絶えていた。

やがては俺も

 「皇国少年」だった。国民学校(現在の小学校)6年生の時に書いた作文に一端が残されている。題名は「九軍神の一人 横山正治中佐」(実際は少佐)。真珠湾攻撃で特殊潜航艇に搭乗し戦死を遂げ、後に軍神とあがめられた横山少佐を題材にした映画「海軍」(43年、田坂具隆監督)の感想文だ。

 〈朝、我が海の荒鷲(あらわし)の決死の猛攻の最中、大きな水柱。やがて月の出頃、我が潜航艇は決然と攻撃をかけた。敵の大戦艦「オクラホマ」をねらつたのだ〉

 〈浮き上つた艇から半身をのり出した姿が見える。その姿は沈む敵艦を見つめたまま動かない(略)その姿こそ九軍神の一人横山正治中佐の尊き最期の姿だつたのだ〉

 「読み返すと、われながら恥ずかしくてしょうがないんだけど…」。学校教育で植え付けられた少国民意識は、40年に全国で祝われた「皇紀2600年」でぐっと強化されたと記憶している。「疑念はない。ないんだよね、完全に信じ込んでいて。やがては俺も戦争に行くんだ、という意識が常にありました」

 44年夏から両親の実家のある秦野に縁故疎開したゆりさんは、翌45年春に現地の国民学校を卒業して横浜市に戻り、西区西戸部町の自宅から、神奈川区の県立工業学校(現神奈川工業高校)に通い始めた。そして5月29日の朝を迎えた。

黒煙に巻かれ

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