関東大震災から90年となった2013年、かつて中心的な被災地だった東京、神奈川の図書館や資料館では、当時の状況や教訓を振り返る展示や催しが次々と企画された。迎えた95年の節目は関連行事が少なく、大きな関心を集めることなく過ぎようとしている。
しかし、より大きな目標に向けて、歴史研究者らが地道な取り組みを重ねる。繰り返されてきた災禍と、抗(あらが)う対策の歩み。それらを掘り起こし、次代への手掛かりを見いだす-。5年後の震災100年を見据え、「首都圏の災害史」を編み直す試みだ。
震災90年の取り組みをへて、首都圏形成史研究会の小研究会として2016年9月に発足した「首都圏災害史研究会」。その設立趣旨にこううたわれている。
〈実際に東京とその周辺は様々な災害によって、時に壊滅的な被害を受けながらも、復旧・復興を遂げてきた。首都圏の歴史、そして将来を語る際に、災害というテーマの重要性は誰もが認めるところであろう〉
一方で、現状の課題を指摘する。
〈しかしながら、関東大震災を除けば、近代の首都と災害に関わる研究は多いとはいえない。これは個々の災害が忘れられてしまっているということだけではない。ある災害の経験は次の災害への対応の仕方に影響を与えている。災害間の関係性も見えていないのだ〉
関東大震災で首都圏は、10万5千人余りもの人々を失った。東日本大震災による死者・行方不明者の約5倍に当たる数だ。壊滅した東京、横浜などから地方に逃れた被災者は100万人に上ったとされるが、それでも街は復興を果たし、人々は暮らしを取り戻した。
比較
だが、その類をみない被害規模や大々的な帝都復興などのインパクトに埋もれ、これまで十分に検証、継承されてこなかった歴史上の災害も少なくない。
そんな問題意識が災害史研究会の出発点にある。代表の神田外語大教授、土田宏成(48)は言う。
「関東大震災のことも、きちんと調べ直さなければならないが、まずは特定の災害より、首都圏で起きた災害の基礎データを整理し、総合的に捉える。その成果を災害史年表にまとめ、ウェブサイトで順次公開していきたい」
手掛かりを得るべく進めているのは、各地の自治体史を読み直す作業だ。対象は1都7県。近現代史などを専門とする研究者10人が手分けして、主に幕末以降の災禍を捉え直そうとしている。
土田は千葉県を担当。図書館などに通い詰めて丹念に読み込み、災害関連の項目に目を凝らす。
実際には災害への言及が少ない自治体史もあるが、「記述の乏しい災害は、その地域にとって大きな意味を持たなかったのではないか」。災害常襲地では、一つ一つが大きな出来事と捉えられずに記されないことがあり、自治体の中心地ではなく境界付近で起きた災害も、記録には残りにくいことが分かってきた。
関東大震災のような甚大な災害が起きると、自治体も「震災誌」をまとめるが、被害規模で下回る災害が各地の通史にどの程度登場するかによって、「地域ごとの災害の比重が見えてくる」という。
変遷
そうした視点でひもといていくと、「震災前夜」の首都圏では、教訓を見つめ直すべき広域災害が相次いでいた。
1910(明治43)年の関東大水害、17(大正6)年には高潮を伴った東京湾台風。深刻化する水害への対応が重要課題となっていたころに襲ってきたのが震災を引き起こしたマグニチュード(M)8級の巨大地震だった。
「関東大震災を契機として災害対策は大きく見直されるが、次第に強まる戦時体制と相まって、防災と防空が一体となって進んでいった」と土田は時代背景の影響も指摘。戦後も災害は繰り返し、1947(昭和22)年には房総半島をかすめたカスリーン台風で利根川の堤防が決壊、東京や埼玉の広い範囲が水没した。
災害史を紡ぐ作業はまだ道半ばだが、土田は実感を込める。「災害は時々の政治経済や社会、文化に大きな影響を及ぼしてきた。災害抜きで首都圏の歴史は考えられない」
土田とともに災害史研究会の中心的役割を果たす横浜開港資料館調査研究員の吉田律人(38)は、6月発行の「史学雑誌」が組んだ特集「二〇世紀日本の防災」に論考を寄せた。
〈従来の災害史の研究蓄積を継承しながら、防災という政策の変遷を解明することで、新たな視座を提示することができるだろう〉
研究会は8日、都内でシンポジウムを開き、現状の到達点や新たな成果を知らしめる。 =敬称略