「三つ目が一番大きかった。だって、後ろを向いたら、もうちょっとで足がさらわれそうになったんだから」
95年もの歳月をへて、なお鮮明な「激浪」の記憶。うねりながら迫ってきた海水は、当時12歳だった少女にとってわが身ばかりか、幼い弟の命をも奪いかねない恐ろしいものだった。
1923(大正12)年9月1日。当時住んでいた逗子・小坪で、高嶋フジ(107)は関東大震災の津波に遭った。今夏、齢(よわい)を一つ重ね、横浜市内の施設に暮らす今も、あの日の記憶はあせることがない。
「一番下の弟は2歳だった。でも、おんぶする暇なんてなかったから、抱えて逃げた。すごい揺れで、何度も落っことしそうになってしまって」
震災直前に母が他界。7人きょうだいの長女は、幼い弟を守るため、母の役割も果たさなければならなかった。
「片方の手で弟を抱え、もう片方でどこかにつかまってね」
立て続けに起きる強い余震。おぼつかない足取りでどうにか高台へ急いだ。傍らでは豆腐屋の火事が押し寄せた海水で消され、わが家も畳の上まで海水に漬かった。
きょうだいが命を危険にさらすことになったのは、あちこちで起きる地割れの中に落ちてしまいそうだからと、いったんは浜へ逃げたからだ。着いてほどなく、漁師が叫んだ。「津波が来るから、丘へ上がれ!」