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時代の正体〈627〉「社会的弱者が犠牲に」 朗読劇に集う(2)

社会 | 神奈川新聞 | 2018年8月16日(木) 11:00

戦争体験について語る金井公子さん(左)と一戸法子さん
戦争体験について語る金井公子さん(左)と一戸法子さん

【時代の正体取材班=松島 佳子】5月上旬、カトリック藤沢教会(藤沢市鵠沼石上)のホールは静まりかえっていた。

 その日は、舞台「宝田明物語」(今月18日・藤沢市民会館大ホール)の最後に出演する市民合唱団の初回練習会だった。初めて顔を合わせた参加者が一人ずつ自己紹介に立つ。ほどなくして、金井公子(きみこ)さん(79)=藤沢市=に順番が回ってきた。

 「引き揚げ者です。旧満州の奉天から引き揚げてきました」

 人前で自らの戦争体験を明らかにするのは初めてだった。直前までは「歌が好きです」とだけ自己紹介するつもりだったが、心が揺れ動いた。

 「同じように満州から引き揚げてきた宝田さんは自らの過酷な体験を通して、戦争や平和の問題を社会に問い掛けている。語ることで何かお役に立てれば、と」

堕胎


「思いを込めて歌いたい」と話す金井さん(右)
「思いを込めて歌いたい」と話す金井さん(右)

 1938年、生まれてすぐ旧満州(中国東北部)へ渡った。

 記憶は断片的だ。家族の祝い事では母の作るニラの入った水ギョーザを囲んだこと、冬の寒さは厳しく、小学校へ毛皮のオーバーを羽織って行ったこと…。幼少期の数少ない思い出だ。

 45年8月9日を境に、現地の状況は一変した。日ソ中立条約を破り、満州に進行したソ連兵が略奪や暴行などを繰り返していると聞き「女の子だと分からないように頭を刈り上げ、ぼろ布をまとった」という。翌46年、何とかして親子4人で輸送船に乗り込み、日本へ引き揚げてきた。

 敗戦時、6歳。家族の中で戦争が話題に上がることは長らくなかった。「生きていくだけで精いっぱいな時代。両親は思い出したくない、という気持ちもあったのかもしれない」

 だが、敗戦から16年後、母が突然、当時のことを口にした。金井さんが長女を出産したときのこと。見舞いに来た母は初孫を抱きながら、言った。「お前は産めてよかったね。あの人も子どもができているといいけれど…」

 それは、独り言のようにも聞こえた。

 日本への輸送船が出る港へ向かおうと乗った列車の外で、ある親子が泣いていた。見ると娘のおなかが膨らんでいる。辱めを受け、妊娠した。このままでは日本に帰れない。2人でいっそ死んでしまおうか。娘の母は、そう言って涙を流していた-。

 「助産師の資格を持っていた母は、お腹の中の赤ん坊を堕ろしてあげたそうです。それ以上、詳しいことは言いませんでした。ただ『戦争がなければ』って」

 満州のハルビンで敗戦を迎えた宝田明さんも、日本人女性がソ連兵に強姦されたのを目にしたという。

自叙伝「銀幕に愛をこめて~ぼくはゴジラの同期生」(筑摩書房)で、宝田さんはこう触れている。

 〈祖国の地を目前にしながら、船から身を投げる女性が何人もいたという。彼女たちは妊娠をしており、それは、八月九日のソ連軍侵攻後にソ連兵から暴行を受けた際のものであったり、引揚げの道中、道なき道を逃げ進むとき、道を通してもらうために現地人に「生け贄」として捧げられた際のものであった〉
 〈この女性たちの、外国人の暴行による望まれぬ妊娠は「不法妊娠」と呼ばれ、現在の福岡県筑紫野市にあった「二日市保養所」では、人工中絶が行われた。一九四六年三月二五日の開設から翌年に閉鎖されるまで、中絶手術を受けた女性の数は、四、五百名にのぼるといわれる〉
 金井さんは言う。

 「戦争は人生を狂わせた。そして、その多くは、社会的に弱い立場にあった子どもや女性たちです」

埋葬


「弟のことを思うと今でも涙が出る」と語る一戸さん=藤沢市
「弟のことを思うと今でも涙が出る」と語る一戸さん=藤沢市

 市民合唱団の練習会には、朝鮮半島からの引き揚げ者である一戸法子(いちのへ・のりこ)さん(80)=相模原市=の姿もあった。



 一戸さんは1938年、朝鮮半島北部(現北朝鮮)の会寧出身。母の実家が呉服屋で、結婚した両親が新たに出店するため、日本人街のあった朝鮮半島に移り住んでいた。

 終戦の直前、満州や朝鮮北部にソ連軍が侵攻。日本の敗戦によって朝鮮半島の植民地支配は終わりを告げる。米国、ソ連の軍事境界線である38度線が敷かれ、両陣営がにらみ合う最前線となった。日本へ引き揚げる船に乗るためには、38度線を越えなければならなかった。

 深夜、母、きょうだいと国道沿いを息を潜めて進んだ。あと一息、というところまで来たとき、若い朝鮮人夫婦に出会った。「戦時中、日本が植民地支配していたにもかかわらず、とても優しい夫婦で泊めてくれたんです。でも、そのとき小さな弟は息も絶え絶えで…」

 母は「家人に迷惑をかけたくない」と一晩中、外で弟を抱いた。翌日、息を引き取った弟の遺体を近くの小高い山に埋めた。

 「私と妹はまだ小さかったので行ってはいけないと言われて…。目印になるよう大きな木が3本立つ場所を選び、野犬に食べられないよう、深く掘った、と聞きました」

 70年以上たった今も、その場所には足を踏み入れることができない。

 「何としてでも行かなきゃという気持ちと、もう二度と行けないという気持ちが交差して…」

 そこまで話すと、一戸さんは押し黙った。

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