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旧日本海軍厚木航空隊元少年飛行兵の回想(中) 日米の国力差を痛感

社会 | 神奈川新聞 | 2018年8月12日(日) 10:44

厚木基地で月光の前に立つ清水さん(本人提供)
厚木基地で月光の前に立つ清水さん(本人提供)

 斜め銃の暴発で重傷を負った旧日本海軍302航空隊(厚木航空隊)の戦闘機操縦士、清水末五郎さん(92)=京都市=は1944年12月、退院して厚木基地(大和、綾瀬市)に移った。

 愛機の夜間戦闘機「月光」のほか、零式戦闘機(ゼロ戦)、防空戦闘機「雷電」を擁した帝都の空を守る海軍の一大拠点だった。操縦士や整備兵、対空砲の射撃手など、諸説あるが基地では4千人ほどが勤務していた。

 特に花形の操縦士にはベテランの手練れが多く、月光部隊には「B29を6機撃墜した」とされる撃墜王・遠藤幸男大尉がいた。乗機の胴体には1機撃墜するごとに鮮やかなピンク色で桜の花が描かれた。戦果は新聞、ラジオなどで報じられ、国民を鼓舞した「英雄」だった。清水さんはまだ18歳。一介の少年兵からすれば雲の上の人で、気安く話しかけられるような雰囲気ではなかった。

 既に本土も爆撃され、太平洋の島々も奪われていたが、清水さんはまだ「戦争に負けるとは思っていなかった」という。「新聞やラジオは『勝った、勝った、我が方の損害は軽微なり』とやっていたから」と振り返る。

 ところが、厚木で清水さんは現実の一端に触れることになる。実際に月光を飛ばし、斜め銃の射撃訓練を行った時のことだ。別の飛行機が50メートルほどの長さのロープの先に吹き流しをつけて飛ぶ。「こいのぼりと一緒や」。敵機に見立てて射撃した。

 斜め銃の銃弾は直径2センチと、同8ミリほどの機関銃や小銃に比べて大きい。「ダッダッダッと撃てば、反動で操縦かんも機体もガタガタ揺れた。照準を合わせるのは非常に難しかった。(実戦で)これで当たるのかなと思った」

 年が明けて45年1月-。清水さんは初めて出撃する。相手は日中にただ1機、横須賀を偵察に来たB29だった。月光は夜間戦闘機だったが、相手のB29に護衛の戦闘機がいなければ、昼間でも迎撃に上がっていたのだった。清水さんは単機で迎え撃った。

 「列線に(月光が)止まってるやろ。整備兵がエンジンを回してくれる。僕が乗って試運転するわな。出る時や、敬礼して『ありがとう』と言うて。『帰ってこれるかな、帰れるかな』。そういう迷いがあった」

 空に上がると、エンジンを四つ積んだ大型機がはるか遠くに見えた。スピードは速く、追いつくことはできなかった。斜め銃は撃たなかった。弾が届かないのは明らかだ。敵機はすぐに雲の中に消えていき、見失った。

 最高時速500キロほどの月光に対し、B29は570キロ。数字だけ見れば、さほど変わらないように思えるが、「あくまで最高速度。月光はそのスピードでずっと飛べるわけではない。同じ方向に飛んでいれば、まず追いつけなかった」と振り返る。日米の国力の差を初めて痛感した瞬間だった。

 清水さんは月光に懸念を抱くようになった。スマートな外見とは対照的に「鈍重」だった。2人乗りで双発の月光は戦闘機としては機体が大きい。翼の幅はゼロ戦の11メートルと比べ、月光は17メートル。翼や胴体が大きい分、敵弾は当たりやすくなる。重さも4500キロとゼロ戦の2倍以上。宙返りのような軽快な機動はできなかった。

 夜間戦闘も難しかった。真っ暗闇となる夜間は方角を見失ったり、高い山に激突したりする危険性が高くなる。現代の航空機はレーダーなどを頼りに飛ぶが73年前のこと。しかも日本は欧米に比べてレーダー、無線なども大きく遅れていた。

 月光にもレーダーを積んだ機体があったが、あくまでも敵機を探すもの。しかも「あかん。(日本のレーダーは)かすんで(敵影が)見えん」という低性能だった。重量を軽減するため、レーダー本体を下ろし、機首にアンテナだけが突き出しているケースもあった。

 B29に近づかなければ、迎撃はできない。夜間は地上から無線で指示され、敵機の方角に飛んでいく。無線機は性能が悪く、よくとぎれた。さらに、味方機同士で交信ができない。米軍のように数機で連携する戦闘はできず、1機ずつバラバラで戦うしかなかった。

 比較的確実なのは陸上部隊が探照灯(サーチライト)で敵機を照らし、その方向に飛んでいく方法だった。

 ただ、月光を見つければB29は当然、反撃する。B29は高性能のレーダーを積み、夜間でも日本機の位置を把握している。こちらの進路を予想して、ハリネズミのように備えた多数の機関銃でバリバリと撃ってくる。「(撃墜王の)遠藤大尉はこんな月光でよくあんなに撃ち落とせたと思う。神がかっていた」

 そんな状況でも戦わなければならなかった。出撃を重ねるにつれて、不安は消えていった。「やったろという気はあったが、やられたら、終わりや。あっさりしてるで。もたもた家族のこととか考えてへん。そんな間がないわ」

 清水さんが頼ったのが、一撃離脱戦法だった。敵機を1回撃ったら、反撃される前に、すぐに機体を左右に滑らせて、その場を離れた。上官や先輩に言われたわけでない、生き残るために考えついた策だった。「敵に弾が当たったかなんて見ていない。見届けていたら、やられちゃう」

 激戦が続き、月光の未帰還が増えていく。1月、遠藤大尉が戦死する。名古屋へ爆撃に来たB29の迎撃に向かい、1機を撃墜。しかし、反撃を受け、撃ち落とされたのだ。ニュース映画でも報じられたほどの事件だった。機体の数もどんどん減る。清水さんが乗る機体もなくなり、基地で待機することが次第に増えていった。

 悲壮な覚悟を固めていた。被弾し、生還が望めなくなったら、自機をB29にぶつけ、刺し違えよう。18歳の少年はここまで追い込まれていた。 


厚木基地で月光の前に立つ清水さん(本人提供)
厚木基地で月光の前に立つ清水さん(本人提供)

愛知県田原市にある遠藤大尉と同乗の西尾治上飛曹の慰霊碑
愛知県田原市にある遠藤大尉と同乗の西尾治上飛曹の慰霊碑
 
 

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