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平和つなぐ 戦後73年の夏
25歳、被爆者の人生語り継ぐ 寄り添い続け、決意あらた

社会 | 神奈川新聞 | 2018年8月7日(火) 02:00

被爆者についてグローカリーの仲間と語り合う鈴木慧南さん(右から2人目)と鈴木晶教諭(右)=5日、広島市中区の平和記念公園
被爆者についてグローカリーの仲間と語り合う鈴木慧南さん(右から2人目)と鈴木晶教諭(右)=5日、広島市中区の平和記念公園

 被爆73年を迎えた6日の「広島原爆の日」。広島市内で開かれた平和記念式典の会場に、横浜市出身の鈴木慧南(けいな)さん(25)の姿があった。

 そのまなざしは、あいさつを読み上げる安倍晋三首相ではなく、原爆死没者慰霊碑と原爆ドームを結んだ直線上に建つ「平和の灯(ともしび)」に向かう。核兵器が廃絶されるその日まで燃え続けるという反核の願いの象徴だ。

 核軍縮をめぐり、安倍首相は「核兵器国と非核兵器国双方の橋渡しに努め、国際社会の取り組みを主導していく」と述べるにとどめ、国連で昨年採択されながら日本が署名を拒否した核兵器禁止条約には一切言及しなかった。

 「一体、誰のための式典なのか。亡くなった方々、被爆者の方々のための式典と言葉のはずなのに、米国を忖度(そんたく)する政治的な場になってしまっている」。鈴木さんは憤りをあらわにした。

 非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)による昨年のノーベル平和賞受賞を被爆者たちは心から喜んだが、日本政府は正式にコメントせず、今回の首相あいさつでも触れなかった。

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 鈴木さんが広島と長崎を初めて訪れたのは2013年、20歳の夏だった。平和を学ぶ明治学院大学の学生サークル「ピースリング」の合宿で被爆者の証言を聞き、激しく落ち込んだ。

 「それまで聞いてきたことと現実があまりに違い、被爆者の悲しみから目を背けたかった。被爆地には二度と来たくないと思った」

 それでも、核なき未来を信じ、次世代に託す語り部と出会ったことで引き寄せられるように15年8月から約1年間、長崎市内で暮らした。「被爆者の方々と同じ時間を過ごし、原爆が自分の身内に起きた出来事のようになった」

 被爆者の思いを語り継ぐ。そう人生を決定づけたのは、NGO「ピースボート」(東京都新宿区)の「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」への参加だ。15、16年の2回、「ユース非核特使」として約100日間、被爆者と船で世界を巡り、各地で証言を伝え、そして語り合った。

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 被爆者の高齢化が進む。自分がいなくなれば、一生懸命に語ってきたこの記憶はどうなるのか-。広島と長崎を毎年訪れて交流を続けるからこそ、被爆者の切実な不安を肌身で感じる。

 原爆の日の前日、横浜市立横浜商業高校(Y校)在学時に戦争や平和について学んだ任意団体「NGOグローカリー」のOGらが初めて広島に集った。被爆者の証言を聞き、継承のあり方を語り合った。

 鈴木さんの同級生で小学校教諭の女性(24)は「子どもたちに原爆を分かりやすく伝えることは難しい。被爆者の思いを理解している慧南に話してほしい」。顧問を務めていた鈴木晶教諭(57)も「継承も核廃絶の訴えも、私たちは広島に甘えすぎていないか。被爆者の体験や思いをより多くの人が共有し、後世につなげていくことが大切」と鈴木さんに期待する。

 ともに学んだ同級生や恩師と被爆地に立ち、鈴木さんは思いを新たにした。

 「『私には慧南がいる。あなたがいるから私の記憶はこの世で生き続ける』。被爆者の方々にそう思ってもらえる存在になりたい」。原爆の実相だけでなく、喜怒哀楽に彩られた被爆者の人生そのものを語り継ぐ覚悟だ。

 1カ月ほど前、鈴木さんは米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)近くに横浜から移住した。かつて戦争で壊滅した広島と長崎、そして今も戦争につながる沖縄。「この三つの地に身を置きながら、平和の尊さを伝えたい」

 
 

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