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療養所「多磨全生園」園長 石井則久さん
ハンセン病に重なる差別 「不幸」の烙印押すな

社会 | 神奈川新聞 | 2018年7月29日(日) 14:50

 「障害者なんて、いなくなればいい」。障害者19人が犠牲となった「やまゆり園事件」の被告が繰り返した主張は、国策として強制的に隔離し、断種や不妊を強いてきたハンセン病患者への差別や偏見と重なる。国立ハンセン病療養所「多磨全生園」(東京都東村山市)園長の石井則久さん(65)は、患者らを苦しめた「絶滅政策」の歴史を直視し、後世に語り継ぐことが過ちを克服する道だと信じている。


石井則久さん
石井則久さん

 主に皮膚や神経に症状が現れるハンセン病は19世紀後半、コレラやペストと同じような恐ろしい感染症と考えられていた。治療法が確立するまでは長らく「業(ごう)病」や「不治の病」と言われ続けてきた。

 治療しない場合は皮膚や神経、手足、そして眼などへの障害を起こす。治療が遅れると顔や手などの外貌が次第に変化し、失明する人もいた。

 重症の高齢男性と会ったのは、横浜市立大医学部5年生のときだった。熊本の療養所に入居していた男性は頭の皮膚が変色して毛髪はなく、目があった場所は穴となっていた。20代の医学生だった石井さんは大きな衝撃を受けた。

 福井の療養所を訪れたときは、入所者が包帯を巻いた手で用意してくれた湯飲みに触れることができなかった。曲がった指は農作業で付いた土で汚れていた。

 「療養所に行って、入所者が出すお茶を飲めるようになったら、偉い」と教授から言われていた。「らい菌」の感染力は非常に弱い。教授は偏見を持たないことの大切さを教えてくれた。

 「当時は、市民はもちろん、知識を持っているはずの専門の医師でさえ、『らい菌』の感染力を怖がっていた時期が長く続いていた」と振り返る。

「絶滅政策」

 国は明治後期から、患者を強制的に収容して療養所から一生出られなくする「ハンセン病絶滅政策」を始めた。昭和初期の1940年代には有効な薬が開発されて治療法が確立されたが、患者の隔離政策は継続されることになる。

 病そのものでなく、病気になった人を社会から抹殺する国の政策の根拠となったのは、31年に成立した「癩(らい)予防法」。

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