「まちが火の海になっているって」。1945年8月9日、長崎の自宅から遊びに来ていた島原の親戚の家で、村山恵子さん(74)=横須賀市=は突然、帰宅を促された。
ようやく列車に乗れたのは、2日後の11日。爆心地の手前にある駅で降りた6歳の少女の目に、駅前の広場に寝かされていた無数の犠牲者たちの姿が映った。
「水…」
全身に包帯を巻かれた負傷者が上げるうめき声が、今も耳に残っている。
被爆体験の語り継ぎに力を注いできたが、時代の流れとともに、戸惑いも感じるようになった。原爆の惨状が、次世代に現実味をもって受け止められず、「おとぎ話のようになっている」と思うことがあるからだ。
「いつまで証言できるか」
村山さんは苦悩を明かす。「世界に被害を叫び続けなければならないのに、私たちは年を取りすぎた」
被爆者健康手帳の保持者は県内に4720人(今年3月末時点)。平均年齢は77.45歳となった。
楠本光雄さん(77)=横須賀市=は小学校3年だったあの日、長崎の爆心地から5キロ離れた家の前で閃光(せんこう)を見た。
「あの人が帰ってきていない」。その夜を過ごした防空壕(ごう)の中で大人たちが交わしていた会話が、耳から離れない。疎開する途中で目にした爆心地の周辺は見渡す限り、がれきで埋め尽くされていた。
被爆体験の証言時に、決まって話すことにしているメッセージがある。「次世代が、相互信頼に基づく社会をつくる教育をしなければならない。私たちも高齢になり、いつまで証言ができるか分からない。核のない世界が一日も早く来ることを望む」
オバマ米大統領が提案した「核なき世界」。その構想に期待を抱く2人だが、米軍基地の街に暮らす被爆体験者として、複雑な思いにかられることもある。最近では「中国や北朝鮮の問題があるのだから、軍は必要では」と言われることも少なくない。
日本の「特別な責任」
日本は現在、「核リスクの低い世界」を目指す非核保有国グループ「軍縮・不拡散イニシアチブ」を主導している。だが、NGO国際ネットワーク「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のティルマン・ラフ共同代表は「被爆国でありながら核を保有する米国と同盟を結び、横須賀などに基地を置かせている日本には、核廃絶への特別な責任がある」と強調する。そして、こう続けた。
「二つの都市を壊滅させられた国が、その兵器を使った国に、その兵器による保護を求めなければならないのは矛盾だ。日米の通常戦力で対処できない脅威には、日本は直面していない。日本が非核防衛政策を取ることこそが、北東アジアの緊張緩和にもつながる」
(2013.8.10、高橋 融生)=おわり