核兵器をめぐる国際社会の論議に変化の兆しが見られ始めた。「核兵器の非人道性」。その訴えは、新たな流れを起こせるか。県内の被爆者や核廃絶を願う人々の思いとともに考える。
薄暗い展示室に眠る銀色の機体が、鈍い光を放つ。
米中西部オハイオ州デイトンの郊外にあるライト・パターソン空軍基地。その一角に立つ国立米空軍博物館に、その機体はある。
「ボックスカー」。1945年8月9日、長崎に原爆を投下したB29爆撃機の実物だ。
「(日本の)降伏は、アジア太平洋での10年以上にわたる日本の攻撃を終わらせた。長崎に近い炭鉱で働いていた米軍人の戦時捕虜にとって、原爆は生存を意味した」
機体横の展示説明には原爆投下時の写真とともに、同機がもたらした業績が記されている。主翼の下には、黄色に塗られた楕円(だえん)形の原爆「ファットマン」の複製が置かれ、来場客がカメラを向ける。
同博物館の歴史研究員、ジェフリー・アンダーウッドさんは、米国にとっての原爆の歴史観をこう説明する。「長期間にわたって核兵器がもたらす影響を理解していた者は当時、ほとんどいなかった。1945年8月には、原爆とは、ただ『新しい強力な爆弾』のことだった」
ハリー・トルーマンの孫として
米国では「原爆投下が日本本土の地上戦を回避させ、第2次大戦を終わらせた」との歴史観が主流を占めてきた。
「だが、歴史は両面から捉える必要がある」。米国の元新聞記者、クリフトン・トルーマン・ダニエルさん(56)は強調する。
祖父の名はハリー・トルーマン。日本への原爆投下の最終命令を下し、「戦争を早期終結に導き、兵士の命を救った」と称された米国の第33代大統領だ。
ダニエルさんが、祖父が大統領だったと知ったのは6歳のころ。教師から告げられたように覚えている。「家族にとってはいい祖父だった」と振り返るが、幼かった孫には、その職責は明かされなかった。
自分が15歳のときに祖父が他界するまで、本人から大統領職の思い出をほとんど聞かされてはいない。学校の現代史の授業でも「ヒロシマ・ナガサキ」に触れた部分はわずかだった。
後世に生きる責務
ダニエルさんは成人後、祖父が「被害を知って核兵器の破壊力に戦慄(せんりつ)していた」と聞いた。
2004年、原爆症の回復を願って折り鶴を作りながら12歳で亡くなった少女、佐々木禎子さんの遺族から、連絡を受けた。2006年に遺族と会い、核廃絶の訴えへの共感を深めるようになる。昨年8月、広島と長崎の平和式典に初参加。被爆者とも面会した。
今年6月にも、広島と長崎を再訪した。12人の被爆者と会い、被爆体験の実相や、体験を証言する動機の取材を続けた。
本国でも、退役軍人たちの話の聞き取りを重ねるという。「歴史の両面から原爆を考える」ための著作に取り組むためだ。
「トルーマン大統領が当時下した命令の是非を、後世の自分は判断できない。だが核が二度と使われてはならないと訴えることは、大統領の子孫として後世に生きる者の責務と思う」
(2013.8.8、高橋 融生)