ずっと覚悟とおびえを抱いて生きてきたという。
私はいつ死ぬか分からない身―。1945年8月の広島、13歳で被爆して以降、放射能の恐ろしさは肌で感じてきたことだった。
それから66年後の昨年3月、東京電力福島第1原発で起きた惨事に、胸を痛めている。「なぜこんなに原発を造ってしまったのだろう。きっと、恐ろしさを語ってくれる人がいなかったのでしょうね」
女学生の体に変事
ことし7月27日、川崎市宮前区の宮前市民館。原爆展の講演会で語り部を務めた市被爆者健康連絡会会長の山口淑子さん(80)=高津区=は、穏やかな口調で真情を吐露した。
山口さんは父親の転勤に伴い、1945年1月に広島へ転居。7カ月後、爆心地から1.3キロの自宅で「その時」が訪れた。
幸いにも、父と母、弟、妹の一家5人は全員が無事だった。けれども、それは後の人生について回る恐怖の始まりでもあった。
終戦後、直接被爆していないはずの女学校の同級生らに変化が現れた。「髪が抜け落ちて、歯茎から出血して。そのうち学校を休み、亡くなる人もポツポツいた」。当時は放射能という言葉を知らなかったが、原爆が体に影響を与えたことはうすうす感づいていた。
母はずっと体調不良に悩まされた。そのつらさに耐えかね、被爆から20年後には自ら命を絶った。
被爆者は肢体の不自由な子どもを産むから結婚しない方がいい―。当時の新聞には、そんなことも書かれていた。「私は直爆だし、きっと長いこと生きられない」。そんな思いも重なり、37歳で結婚するまで、独り身で生きていく決意だった。
「ピカはうつるなんて、しょっちゅう言われたからね」。世間の差別と偏見は、被爆者が表舞台から隠れる状況を生み出した。「被爆者だと分かると、就職も結婚も不利になった。だから被爆者手帳も取らず、子どもに体験談を語らない人も中にはいたのよ」
黙殺の歴史、二度と
自身は特に被爆者であることを隠さなかった。原爆の語り部として年数回の講演活動をはじめ、原発の核燃料輸送の反対運動などにも奔走してきた。
講演では、原爆投下直後の様子をあまり詳しくは語らない。「それだけだと、『悲しい、かわいそうな被爆者』で終わっちゃうから」。それよりも「こんなつらい思いを経験して、今を生きているという話の方が、この先、自分のこととして受け止めてもらえる」。
毎週金曜日、群衆が首相官邸を取り囲む光景が、山口さんには一筋の光明に映るという。
「ヒロシマの時はなかったこと。10年間は原爆がどんなものかも知らされなかったから」
差別が被爆者の口をつぐみ、数多くの恐怖が黙殺された結果が原発だった。その歴史が繰り返されないことを願っている。
(2012.8.7、高田 俊吾)