
津久井やまゆり園事件から着想し、長編小説『月』(※1)を書いた作家の辺見庸さん(75)は、事件と死刑は「正義」の盲信(もうしん)という次元で相関するとみなす。肉感としての「リアルな生体の死」を、植松聖被告(30)は想起できただろうか。そして、わたしたちは?(聞き手・川島 秀宜)
──被告は横浜拘置支所で『月』を読んだそうです。感想を手紙で寄せてきました(※2)。
「この事件について、まず、川島君はどう思うの?」
──一刀両断できないと思いました。事件の根底に優生思想があるが、歴史的に絶対悪の評価が定まったヒトラーの延長として断罪してしまえば、それまでだと。妻が妊娠したとき、わたしは出生前診断を受けるか悩みました。結果次第で産むか産まないか、迷ってしまうからやめよう、と妻が決めました。そのとき、わたしは事実として「優れた生命」を望んでいたのだと気づきました。わたしたちの身近な生活にも、被告と地続きの発想が少なからずあるのではないか、そう考えています。
「大事な視点だよね。世界の万人が彼と関係があるといってもいい。彼の行為によってほとばしり出た血潮を浴びてない人間は一人もいないんじゃないかな。われわれは細かく裁断された日常のなかで、さとくん(被告)と同じような過ちを犯しうると気づくべきではないかな。彼は間違いなく、社会的な産物だよ」
「さとくんに対する嫌悪は、自分に対する嫌悪に似ている。われわれは、うっすら気づいている。だから、直視したくないんだよ。小説を書きながら考えた。このメインテーマは読者に受け入れられないだろうな、と。なんで自分のアグリーな内面と向き合わなきゃいけないのか、ってさ」
──被告は重度障害者の殺害は「善意」「正義」だといっています。ときとして善意や正義が他者を傷つける場合がある。善悪は表裏の関係にあるのではないか。この事件から感じたことです。