【時代の正体取材班=田崎 基】問題の本質を理解していないのは私自身もそうだった。思慮を欠いた一言一言は、私がセクハラを受ける側ではないという属性に根ざしているのは間違いなかった。
19日朝、財務省の福田淳一事務次官のセクハラ疑惑について記事を書くため、私は民放の女性ディレクターの携帯電話を鳴らした。
―セクハラの被害は受けたことはありますか。
「それはね。言い出したら切りがない」
―ちょっと教えてもらえませんか。
「いいけど。メールで送ります」
―この電話で話してもらえれば、メモを取ります。
「…」
一瞬の沈黙。答えに詰まった後、返ってきたのは「そんなの恥ずかしい」だった。
同業のよしみという勝手な甘えも手伝って、ぶしつけに証言を強いたことを悔いた。数時間後、送られてきたメールに愕然とした。
〈取材相手に「やろうよ。やらないと相性が分からないじゃん」と言われた〉
〈上司に抱きつかれ下半身を押しつけられた〉
「恥ずかしい」どころではなかった。わいせつ事件と呼ぶべき被害を受けていながら、封印しなければならなかった二重、三重の苦しみを思った。
簡単に口にできるはずがなかった。言葉にするには記憶を呼び起こさなければならない。そして実際に話すという行為は、自分は辱められた、もてあそんでよい存在とみなされたということを自ら再確認する作業にほかならない。
その屈辱を乗り越え、ようやく第三者に伝えることができたとしても、大抵は「よくあることだ」「うまく立ち回れ」などと被害が軽く見積もられる。尊厳が軽んじられ、踏みつけにされるという人権侵害はここでも繰り返される。それが分かっていて、どうして自ら傷をさらすことができるだろう。
電話口で気安く教えてくださいなどと求めた自分の振る舞いに恥じ入るほかなかった。女性たちは沈黙を強いられてきた。そうして被害はなかったことにさせられてきた。黙らせている側にこそ目を向ける必要があった。
底流に温存
19日夕、福田事務次官のセクハラ発言報道を巡る財務省の調査方法に抗議する署名を呼び掛けた弁護士が開いた会見は、沈黙を強いてきた側、被害をなかったことにしたい側の問題をただすものだった。
報道各社に女性記者への「協力」を要請しながら、その告発先が財務省の顧問弁護士であるという倒錯。麻生太郎財務相は報道陣に向かって「全然付き合いのない弁護士さんにお願いできますか。常識的に話してくれ」と言い放ったが、署名の呼び掛け人の一人である内山宙弁護士はその非常識ぶりを指摘した。
「付き合いのある弁護士だからこそ駄目だということが分かっていない。中立性を欠くことは明白。加害者側に立つ弁護士に一体、誰が名乗り出られるだろうか」
名乗り出られるなら名乗り出てみろという強者の傲慢(ごうまん)、恫喝(どうかつ)の意図までもが透けている。事実、同省の福田事務次官は名誉毀損(きそん)だとして問題を報じた新潮社を提訴する準備をしていると明かしている。
さらに18日の衆院財務金融委員会での答弁。財務省の対応を批判する野党議員に対し、同省の矢野康治官房長は「(名乗り出るのが)そんなに苦痛なのか」「『加害者』『被害者』と言っているが、本件は『加害があったかどうか』ということに疑義が生じている」と答えた。
「加害があったかどうかに疑義がある」ことが問題なのではない。「加害があった可能性がある」こと自体すでに問題があるのだ。それを「双方から話を聞かなければいけない」と口にした途端、被害の訴えは疑いのまなざしにさらされることになる。