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日本丸、朝鮮戦争前線に 初公開の航海記録から判明

社会 | 神奈川新聞 | 2018年4月8日(日) 18:00

朝鮮戦争時に日本から仁川に向かった航跡図を示す飯田船長=帆船日本丸船内
朝鮮戦争時に日本から仁川に向かった航跡図を示す飯田船長=帆船日本丸船内

 国重要文化財に指定された帆船日本丸が1950年に勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争に極秘裏に動員され、米軍率いる国連軍の上陸作戦が行われた仁川に米軍と韓国軍部隊を日本から輸送していたことが、公開された航海記録から明らかになった。国連軍の海上輸送を日本の船舶が支えていた実態は解明されておらず、有事に際しては船員を育てる練習帆船も動員して兵士を前線に送り込んだことを示す貴重な資料として注目されそうだ。

 朝鮮戦争時、日本丸は姉妹船の海王丸とともに日本と朝鮮半島間で国連軍関連の「特殊輸送」を命じられた。帆船日本丸記念財団編「帆船日本丸-半世紀を越える歴史のすべて」(86年)によると、航海実績は両船それぞれ3回。日本丸の1回目の航海は50年8月17~31日、米軍の日本における前線基地があった長崎・佐世保を拠点に、北朝鮮軍に包囲された釜山から韓国避難民を横浜に輸送したという。しかし、練習帆船を運航していた航海訓練所(現・海技教育機構)が監修した記念誌などにも記述が一部にとどまり、全容は明らかになっていなかった。

 同財団が3月に初めて公開した日本丸の航海記録は、2回目の「特殊輸送」に当たる同年10月22日~11月1日の航海日誌と機関日誌、無線日誌、そして航跡図。

 佐世保を出港し、米軍の駐留施設があった大分に寄港した後、国連軍の上陸作戦からわずか1カ月後の仁川行きを強行。その後、佐世保に戻る航路をたどった。大分で記された10月23日付の航海日誌には英語で「8人の米陸軍兵と、512人の韓国軍部隊が乗船した」と記されていたことが判明した。

 朝鮮戦争の前線に日本の船舶を送り込み、日本人船員に国連軍の海上輸送を支えるよう命じたのは連合国軍総司令部(GHQ)が設置した日本商船管理局(SCAJAP)の下部組織、商船管理委員会(CMMC)。兵員や物資を輸送する米軍の船舶不足を補う狙いがあった。

 同委員会の有吉義弥理事長は回顧録「海運五十年」(日本海事新聞社、75年)に、日本人船員は米兵よりも朝鮮沿岸の地形に精通していた、とした上で「米軍の下部機構としての商船管理委員会の活躍ぶりは、各方面で十分評価されていたと思います。特に朝鮮事変での貢献は大変な評判でした」と記している。

 当時は極秘扱いだったため、動員された船員名や船名のほか、その航海実績は未解明のまま。悲惨な海難事故も絶えなかったが記録は乏しい。横浜市編「横浜の空襲と戦災〈5〉接収・復興編」(77年)には朝鮮半島日本海側の元山沖を航行中の大型曳船(えいせん)が50年11月15日、触雷で沈没して日本人船員27人のうち22人が死亡したと記されている。

 日本丸は当時、帆やヤード(帆桁)が外され、2機のエンジンを使いゆっくりとした速度で航行した。日本丸の飯田敏夫船長は「一進一退の激しい戦闘が続く中、兵士を乗せて航海した日本人船員たちの心労は相当なものだっただろう。航海日誌は日本船舶史の一幕を知る記録として貴重だ」と話している。

 日本丸は横浜・みなとみらい21(MM21)地区で保存されており、航海記録は船内で開催中の「国指定重要文化財 帆船日本丸 附(つ)けたり 特別展」で公開中。15日まで。見学には入館券が必要。月曜休館。問い合わせは、同財団電話045(221)0280。

朝鮮戦争 1950年6月に北朝鮮軍の砲撃で開戦し、韓国の首都ソウルが占拠されたほか、朝鮮半島東南端の釜山周辺まで攻勢にさらされた。米軍主体の国連軍は同年9月、マッカーサー司令官の指揮によりソウルの西方、仁川から上陸作戦を開始。国連軍は、いったんは奪回しながら北朝鮮軍と中国軍に再度占領されたソウルを51年3月に再奪還した。戦況は膠着(こうちゃく)状態になる中、戦線拡大を主張したマッカーサーは国連軍総司令官を解任され、53年7月の休戦協定締結へと向かった。

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