
室内に差し込む柔らかな午後の日差しを背に、横須賀市長の上地(かみじ)克明さん(64)が亡き父を語り始めた。
「剛気でハートが熱すぎてね。社会とは折り合いがつかない人だった」。酒に走り、鬼の形相で怒り、家族に手を上げた。
「かみじ」という姓の読み方、「克明」という名前。父の人生を振り返り、自身の氏名を思う。そこには差別に苦悶(くもん)し、戦争に人生を狂わされた父の思いが投影され、偏見のない平和な社会への願いが込められていた。
1920年、父は沖縄・宮古島で上地(うえち)家の長男として生まれた。名前は恵祐。「恵」の一字は、島を治め、琉球王朝にも仕えた氏族の流れをくむ男性の名前に受け継がれていた。とはいえ、一家の生活は厳しく、サトウキビ畑で働き、大阪へ出稼ぎに行ったこともあった。
陸軍に入隊後、中国戦線に送られた。破竹の勢いで階級を駆け上がる一方、沖縄差別に苦しみ、上官に反発もした。所属部隊の記録には「恵祐」でなく、「恵介」と記されている。「沖縄を彷彿(ほうふつ)させる名前を隠そうと、自ら変えたんでしょう」。上地さんは父の苦悩を推し量る。
やがて日本軍が劣勢を強いられると、精鋭だった所属部隊は太平洋のニューギニア島に転戦した。敵は連合国軍だけではない。マラリア感染や飢えにも苦しめられ、十数万人もの日本兵が命を落とした。父も銃弾飛び交う前線に立ち、マラリアに倒れ、野戦病院で伏している間に部隊が全滅した。唯一心を許していた戦友も犠牲となった。
戦友とは、