
横田滋さん(85)と早紀江さん(81)夫妻は1990年ごろから、滋さんの定年退職後を見据えて選んだ川崎市川崎区のマンションで暮らしている。長女めぐみさん=失踪当時(13)=が新潟市内で姿を消してから20年後の97年に、北朝鮮による拉致疑惑が浮上した。
それまでは何の手掛かりもなかった。似ている少女の絵を見つけて、絵画展に確認に行ったこともある。早紀江さんは「どんな人でも似ているように思えた。心残りがないように、どんな場所でも行って確かめた」。めぐみさんが描いていたイラストに似た漫画がないか、雑誌をめくって探したりもした。
北朝鮮は2002年に拉致を認めた。04年には後に別人のDNAと判明した「遺骨」と共に、北朝鮮に入った直後とみられるめぐみさんの写真が渡された。「あれが一番嫌な写真。連れて来られた悲惨さが、全部表情に出ている」
02年に曽我ひとみさん(58)や蓮池薫さん(60)ら拉致被害者5人が帰国したことで、めぐみさんの北朝鮮での状況が少しずつ分かっていった。
曽我さんからは、めぐみさんと一時同居した北朝鮮の招待所で、ケーキやアイスを作ってもらった話を聞いた。「食べ物が乏しい国だと思っていたが、そんな物も食べることができていたのかと安堵(あんど)した」と早紀江さん。同じ日本人同士、支え合う存在があったことにもほっとした。
一方で、「帰りたい」と言い続けていためぐみさんの様子も知る。蓮池さんから教えてもらった話だ。「めぐみは空港や港に行けばなんとか帰れるだろうと思い、たびたびその方向に行ったみたい。それを見つけた蓮池さんが、『そんなことをしたらこの国ではだめ。僕たちみたいにしていないといけない』と一生懸命諭してくれたと」。苦しさで胸がえぐられた。
普通の感覚で喜怒哀楽を感じられる状況ではないと、早紀江さんは言う。「しっかり抑圧していないと、発狂してしまう」。被害者家族はそうして「大丈夫だ」と信じながら、上を見ながら生きてきた。「きっと、めぐみや拉致された人たちも同じ思いで、早く帰りたいと願っている。だから頑張らないといけないんです」
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14年、早紀江さんと滋さんは、孫でめぐみさんの娘キム・ウンギョンさんとモンゴルで面会。「めぐみちゃんの若い頃によく似ていた。夢のようだった」。早紀江さんは当時の会見で喜びをこう語っていた。
ウンギョンさんの存在は02年に発覚。横田さん夫妻に「会いに来て」とメッセージも送っていた。12年後にようやく面会が実現した際、ウンギョンさんから「どうして長い間会いに来てくれなかったの」と真っ先に言われた。
早紀江さんは振り返る。「事情があって簡単じゃなかったと説明したら、涙ぐんで『うん』と言っていた。拉致被害者が日本に帰国できた時に、またみんなで会えると伝えてきた。つらいけど希望を持っていようと」。別れの時も、ウンギョンさんは涙を流した。「再び孫に会いたい気持ちはもちろんある。でも拉致問題が解決するまでは、北朝鮮の策略に乗せられるかもしれないから、会いには行けない」
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めぐみさんの拉致疑惑は、日本政府が見解を明らかにする前に週刊誌などで報じられた。早紀江さんの著書「めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる」(1999年、草思社刊)には、その時点でめぐみさんの実名を公表することを早紀江さんや息子たちがためらったことが記されている。早紀江さんは拉致から40年となった昨年11月15日の記者会見でも、当時の心境を振り返った。「あの国の怖さは聞いていた。せっかく元気で生きていても、名前と顔を出すことで(北朝鮮側にめぐみさんが)狙われるかもしれないと思った」
その時感じた恐怖は今も変わらない。北朝鮮は昨年11月にもミサイルを発射した。「何が起きるか分からない。みんなが守られ、無事に解放されるようにと祈るしかない」。
私たちは普通のおじいさんとおばあさん-。同じ日の会見で、早紀江さんは自分たち夫婦をそう表した。それでも難しい政治や外交問題を気にしながら、拉致被害者らの安否を気遣いながら日々を過ごしている。
北朝鮮の問題は拉致だけにとどまらない。「北朝鮮国民も悲惨な生活をしていて、そうした状況が変わらないと向こうの国も平和にならない。世界中が北朝鮮(の動向)を凝視するようになったが、どうしたらいいかは家族だって分からないし、(政府のような)大きな組織の人たちだって分からず、手出しができない」。だが、拉致被害者の帰国を待つ家族たちの時間は限られている。全国各地で行ってきた救出のための講演活動に、高齢となった早紀江さんと滋さんが直接出向くことはほとんどなくなった。「(解決するまで)私たちは元気でいられるだろうか。いまが一番しんどいです」

