
8日から始まる「やまゆり園事件」の裁判員裁判では、刑事訴訟法に基づき、亡くなった19人全員が匿名で審理される見通しだ。差別を懸念する遺族らの申し立てを受け、横浜地裁が公判前整理手続きの中で秘匿を決定した。公判は実名での審理が原則とされるが、今回は「甲A」や「乙B」などの呼称で統一される。
関係者によると、殺人などの罪で起訴された元施設職員植松聖被告(29)の公判では、殺害された19人に加え、重軽傷を負った26人についても、一部を除いて大半が名前などの個人情報を伏せて審理される予定。知的障害者に対する差別や偏見を危惧する声が遺族・被害者側から上がり、地裁が要望を受け入れたという。
このため、匿名を希望する被害者については、死亡した入所者を「甲」、重軽傷を負った入所者を「乙」、職員らを「丙」と分類した上で、さらに1人ずつアルファベットを割り当てた表記で呼ばれる。一部の被害者家族は実名での審理を希望しているため、実名と匿名が混在した形で裁判が進むことになる。
裁判は誰でも傍聴でき、審理される情報は全て公開されるのが基本だ。甲南大学法科大学院の園田寿教授は「裁判が適切に進められているか、不当なものではないかを国民が監視し、裁判を公平なものとして保つため、傍聴の権利が憲法上保障されている」とその理由を説明する。
一方で刑訴法では、被害者側の申し出のほか、公表によって被害者側が不利益を被る可能性がある場合、個人の特定につながる情報を秘匿できると規定。性犯罪やストーカー事件、少年事件などで認められるケースが多い。条文上は社会的な悪影響が予想される場合も秘匿できる。
事件を巡っては、遺族らの強い要望を理由に、県警が被害者の身元を匿名で発表した。事件の発生日前に県が毎年開いてきた追悼式でも、19人の実名は伏せられてきた経緯がある。
園田教授は「裁判所は秘匿の判断をする際、社会的な利益と被害者側の不利益を慎重に考慮しなければならない」と指摘。今回の秘匿決定に一定の理解を示しつつも、「秘匿された情報や秘匿の判断そのものが正当なのかどうか検証することは、審理中も判決後も求められるだろう」と話している。
「匿名報道」継続します
統合編集局次長兼報道部長 佐藤奇平
入所する障害者ら45人が殺傷された「やまゆり園事件」の裁判員裁判が8日、横浜地裁で始まります。神奈川新聞社は、当事者の氏名を実名で報じることを原則としていますが、この裁判で匿名で審理される被害者については、匿名のまま報道します。
言うまでもなく、実名は私たちが伝えなければならない事実の核心です。ニュースの真実性と信頼性を高める、捜査当局に代表される権力の監視、事後の検証性の確保─など、実名報道を必要とする理由は、いくつも挙げられます。
中でも、私たちが一番に考えているのは、犯罪や事故によって理不尽にも命を奪われた方の「生きた証し」を、同じ社会を生きる仲間として分かち合いたい、という思いです。遺族らの怒り、悲しみも共有し、背景や問題点を探って同様の犠牲者を二度と生み出さない社会をつくりたい。私たちは日々、そうした思いを胸に取材を進めています。
一方で、私たちは「やまゆり園事件」の被害者についてこれまで、一部の方を除き実名を報じていません。県警が事件発生当初に実名を発表しなかったことも理由の一つですが、その後の独自取材で被害者の氏名を把握した後も、匿名で報道し続けています。
事件の発生直後は、安否を気遣う関係者にとって「亡くなったのは誰か」という情報は重要なニュースです。ただ、時間が経過するにつれ、「誰か」だけではなく「どのような方だったのか」がより重要になります。それには人柄や生前の様子などを当人に代わって語ってくれる遺族への取材が欠かせません。しかしながら現時点では、実名で報道するだけの取材は尽くせていません。
匿名報道の理由は、もう一つあります。事件の犠牲者は障害のある方たちです。社会には依然として、障害者に対する偏見、差別が根強く残っています。それを許すべきではないと強調するにせよ、偏見や差別で苦しんできた遺族の「実名を明かさないでほしい」との願いを無視し、さらなる不利益を与えかねない報道をすることはできない、と判断しました。
市民が納めた税金で運営される公的機関が得た情報は、市民の共有財産であるはずです。どのような情報も公開するのが原則で、私たちが「実名発表」を求める根源的な理由です。発表された実名を、実名のまま報じるか、例外的に匿名とするかは、報道機関が自ら判断する、というのが私たちの考えです。
実名報道に関する私たちのこうした考えが被害者や遺族、多くの読者、市民に理解してもらえるよう、今後も取材と説明を尽くしていきます。