
今年で没後500年を迎えた小田原北条氏の初代・伊勢宗瑞(北条早雲)についてのシンポジウムが15日、小田原市民会館(小田原市本町)で開かれた。約300人の歴史ファンらが参加し、謎が多かった宗瑞の最新研究に耳を傾けた。
市では宗瑞没後500年を顕彰し、実行委員会を組織。昨年から「早雲イヤー」として記念行事を展開している。
本体事業は7、8日のクロージングイベントで閉幕したが、小田原城天守閣の主催となる今回のシンポはその関連事業。宗瑞を扱った主要イベントはこれが最後となった。
シンポは「伊勢宗瑞の小田原進出」がテーマ。宗瑞が大森氏の小田原城を奪った時期については、これまで「鎌倉大日記」の記述にある明応4(1495)年説が有力だったが、近年は他資料の発掘などから疑問が投げ掛けられている。
前半の講演で駿河台大の黒田基樹教授と馬事文化財団の長塚孝参与(馬の博物館学芸員)は、信頼できる他資料により、明応5年でも大森氏が城主であることが分かることから「明応4年説」を否定。黒田教授は伊豆平定後の明応9(1500)年秋から翌春までの間と特定した。
一方、静岡県伊東市教育委員会の金子浩之主幹は従来説を支持した。多くの古文書にある「宗瑞が牛千頭の角にたいまつを付けて攻めた」という荒唐無稽な記述について、この年に相模トラフを震源域とする大地震と津波が小田原を襲った事実を指摘した上で、「牛は水神の化身であり、“水神のたたり”である津波が小田原を襲ったということ」と説明。混乱に乗じて城を奪ったとした。
後半のシンポジウムでは天守閣の諏訪間順館長が司会を務め、講演した3人が議論を展開した。