「右手を失ったのではなく、左手の音楽を与えられたんです」
世界で観客を魅了し続けるピアニストの舘野泉さん(81)=東京都目黒区=は、どんな苦境も楽しむ天才だ。
拠点にしているフィンランドでの公演中に脳出血で倒れたのは、2002年1月のこと。65歳で右半身まひになり、しばらく寝たきり生活を余儀なくされた。
「絶望したでしょう。悲しかったでしょう」
04年に「左手のピアニスト」として再起を果たして年50回以上も公演を行うが、倒れた当時のことは「暗い過去」と見られることが多い。
「どん底からはい上がったと言った方が、ドラマティックだよね」
いたずらっぽく笑う本人はあるとき、気付いた。
「音を表現するために必要なのは両手ではない」
再起
父はチェリスト、母はピアニストという音楽一家の長男として、5歳で本格的にピアノを始めた。
高校2年生のとき、初めて壁にぶつかった。自分独自の演奏スタイルを身に付けるためにはどうしたらいいのか…。
「肩の力を抜いてごらん」。恩師コハンスキー先生のアドバイスを聞いて意を強くした。「僕が実践していたことだった。いままで通りでいいんだ」。
このときの記憶がおよそ半世紀後、リハビリのさなかで思い出された。
「毎秒生まれ変わるような感覚」は闘病中、さまざまな経験を通じて右手が持っていた「記憶」が徐々によみがえってくる喜びと重なった。
だが、それでも右手の感覚は思うように戻らない。倒れてから一年余りがすぎた03年春、息子からある譜面を手渡された。
「音が香ってきた。再び音楽の世界に戻ることができる」
左手一本で演奏する人のための譜面だった。左手専用の楽譜の中には「ボレロ」で知られるラベルが作曲したものがあることは、東京芸術大学入学前に既に知っていた。しかし、「左手の音楽」に関心が向くことはなかった。一つの楽譜を前にして全身に力がみなぎってきた。
再びステージに立つためには、オリジナル曲が必要だった。作曲家の間宮芳生さんらに作品を委嘱した。間宮さん書き下ろしの「風のしるし・オッフェルトリウム」などを手に04年、念願の復帰を果たした。
異変
「1音出したら、その世界で泳ぎだしている」
演奏中の左手は、鍵盤という“キャンバス”でダイナミックな動きをする。例えれば、5本の手に塗った赤、青、黄などの絵の具によって、オレンジや紫など別の色が生み出されていくような感覚だ。音符を追う指は交差したり、指の側面を使ったりするなど異次元の動きを見せる。
10カ国以上の作曲家が舘野さんのために書く曲は、年々複雑になっている。「手の幅は決まっているのに、なんでこんなに細かく音符があるんだろう」と投げ出したくもなる。「でも練習をしていると、『あ、ここは手を滑らせればいいな』と気付き、いつの間にか弾けるようになる」
そんな舘野さんの体に異変が起きたのは、今年10月中旬。突然、左肘に激痛が走った。救急病院で診察してもらうと、医師から「石灰化している部分がある。2週間は安静」と告げられた。白黒合わせて88ある鍵盤。高音を演奏する際、鍵盤の右端まで左手を伸ばすため、180センチ近くある大きな体を右にひねるなど腰に負担がかかっていた。