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平和つなぐ
青春なき水上特攻兵 三浦の「震洋」元隊員

社会 | 神奈川新聞 | 2019年12月14日(土) 10:16

 日本による1941年12月8日の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まってから、78年が経過した。4年余りの泥沼の日中戦争の上に無謀を重ねて開戦した帰結の一つが、兵士に自爆攻撃を強いた特攻だ。その基地は神奈川にもあった。

夜光虫


震洋について語り合う佐怒賀一美さん(右)と木村禮子さん。木村さんも戦時中、兵器工場に勤労動員された=茨城県古河市
震洋について語り合う佐怒賀一美さん(右)と木村禮子さん。木村さんも戦時中、兵器工場に勤労動員された=茨城県古河市

 いい月夜だった。下弦過ぎの月が東の空に上り始めた45年8月1日午後11時前。三浦半島の先端、現在の三浦市南下浦町松輪の江奈湾岸に整列した16、17歳の少年たち約50人は、まもなく遭遇する米艦船との激突とはあまりに対照的な、穏やかな波音を聞いていた。

 大戦末期の45年6月、水上特攻「震洋(しんよう)」第56部隊の基地がここに置かれた。250キログラムの爆薬を載せた1~2人乗りボートで敵艦に突っ込む作戦だ。だが勇ましい名に似ず、船体は長さ5メートル程度、燃料はガソリン不足のためアルコール、時折火災を起こす不完全なエンジン、そして材料はベニヤ板という代物だった。

 茨城県古河市に住む佐怒賀(さぬが)一美さん(92)もその夜、江奈湾で出撃を待った56部隊の一員である。「ばかに静かなんだよ。別れの杯を交わしたときは、本当に緊張しちゃって」

 「敵攻撃船団三千乃至(ないし)四千北上中」。伊豆大島からの報告を受け、56部隊に下された出撃準備命令。4組に分かれていた艇隊のうち、第3艇隊が先陣を切ることになった。じきに第2艇隊の佐怒賀さんにも順番が来る。「いよいよ最後か」との思いが頭の中を巡ったという。

 けれども、出撃はなかった。未明になって夜光虫の誤認だと分かったからだ。それを伝えるため駆け付けた伝令の必死の形相、鼓動が聞こえるほどの荒い息を、佐怒賀さんは忘れられない。

 「死ぬ覚悟はできているつもりでも、生きられると思うとやっぱりホッとしたね」。とうに捨てたはずの生への執着が、出し抜けに頭をもたげた。

 静かに宿舎へと引き上げた少年たちは、飛行服に飛行帽という戦闘機乗りのようないでたちだった。実は皆、大空を飛ぶことを夢見ていた。

予科練

 父の印鑑を勝手に持ち出し、佐怒賀さんは家族に黙って海軍飛行予科練習生(予科練)に志願した。商業学校に通っていた44年のことだ。「予科練へ行くのは死にに行くことだと分かっていたからね。親に怒られっから」

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