神奈川県相模原市の県立障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害され、26人が重軽傷を負った事件で、逮捕・起訴された植松聖被告(29)の初公判が、来年1月8日から横浜地裁で始まる。
2016年7月26日の事件発生から約3年半。被告は「障害者は不幸をばらまく存在」と犯行を正当化し続けている。
この事件、そして植松被告が我々に突きつけるものとは何なのか。
ある人は被告との接見や文通を通じ、ある人は自らの大学の講義を通じ、社会に問い続けている。
やまゆり園事件、1月8日初公判 被告の責任能力争点に
パラリンピックが格差助長?異論も 超人化するアスリート
私が殺したのは人ではない―
2016年7月26日。真夏の未明だった。障害者施設「やまゆり園」に侵入した男は、入所者19人を殺した。逮捕・起訴された植松聖被告は、それを「殺人」とは考えていないのだという。
「私が殺したのは人ではありません。〝心失者〟です」
心を失った者―。被告本人による造語と、犯行の真意について、こう語る。
「意思疎通のできない重度障害者は人の幸せを奪い、不幸をばらまく存在。絶対に安楽死させなければいけない」
被告は、事件の現場となったやまゆり園の元職員だ。入所者と接する中で、たどり付いたのがこの答えと凶行だったのだという。そして約3年半が経過した今も、その考えは何一つ変わっていない。
八つ裂きにしたい激情
その社会学者は事件発生当初、「(被告を)八つ裂きにしてやりたい」激情に駆られたという。横浜市に住む最首悟さん(83=和光大学名誉教授)は、ダウン症で知的障害のある三女・星子さん(43)と暮らしている。
当事者の親として、社会学者として、報道機関などを通じて発言を続けていた。ある縁で、被告から手紙が届いた。返信を書くに当たり、神奈川新聞記者とともに被告に接見した。初めて顔を合わせたのは、発生から2年が経過しようとする2018年7月の初めだった。
被告からの手紙には、こう記されていた。
〈最首さんのお考えを拝読させていただきましたが、現実を認識しつつも問題解決を目指していないよう映ります。心失者と言われても家族として過ごしてきたのですから情が移るのも当然です。最首さんの立場は本当に酷な位置にあると思いますが、それを受け入れることもできません〉
面会して、手紙の真意について尋ねると、植松被告は淡々と答えた。
「意思疎通の取れない娘を擁護するのは親としては無理もないが、大学で指導する立場だったら何とかしていただきたい」
最首さんは意図をこうくんだ。
「彼から見た私は、やまゆり事件に至る事柄や思想について、重度障害者を排除する側にありながら、その責務を果たしていない。しかも排除される者の側でもあり、板挟みの状態にある、という指摘である。そう判断する理由を忖度(そんたく)すると、私が大学人であり、そうである限り、理をもって大所から事にあたるべきであるのに、家族の情に流されている、ということになる」
わからないという優しさ
30分間の面会を終え、最首さんは確信した。植松被告は精神障害でも薬物中毒でもなく、正気だった、と。「社会にとって正しいことをし、多くの人に受け入れられると信じているのだろう」
事件後、インターネットの掲示板やツイッターには「正論だ」「障害者はいらない」といった被告の主張に同調する投稿があふれた。状況は今も変わらず、被告の元には賛意を示す手紙が届くという。
植松被告は多くの人の潜在意識にある前衛として出るべくして出てきた、と最首さんは考えている。「日本社会には『働かざる者、食うべからず』という、生産能力の低い者を排除する風潮がある。植松被告のような考えを心に持つ人は社会の圧倒的な多数派だ」
娘の星子さんは目が見えず、言葉を話すこともできない。食事にも排せつにも介助が必要だ。
きれいごとや強がりを言うつもりはない。この子がいたからこそ、という思いと、この子さえいなければ、という思いは表裏一体で自分の中にある。
ただ、その日々は被告が言うように「不幸しか生まない」のか。その問いにノーと答えるのは、「情が移っている」からなのか。
最首さんはいずれもを、静かに否定する。
「どんな希望をもっていますか。うーん、と口ごもり、こんな居心地の悪い時代にと思いながら、星子がいる、穏やかな、何ということもない日を思い浮かべ、明日もまた今日のごとく、とつぶやく。それが希望のなかの希望かもしれないと思う」
星子さんは音楽に合わせて体を揺らすことが好きで、中島みゆきさんやアイドルの「嵐」が特にお気に入りなのだという。
「表には出ない心を誰もが持っている。星子もそう。分からないから分かりたい。分からないからこそ、次に何が起きるだろうという期待や希望が湧く。心失者なんていない」
面会から1週間。最首さんは返信を出した。植松被告と、その考えに同調する人たちに向けて。手紙の最後に、こうつづった。
〈人にはどんなにしても、決してわからないことがある。そのことが腑に落ちると、人は穏やかなやさしさに包まれるのではないか〉
最首さんは今も、毎月1通ずつ被告へ手紙を出し続けている。
「こんな夜更けにバナナ」でも
私とあなたは何が違うのか―。ノンフィクションライターの渡辺一史さん(51)も、そんな「わからなさ」を胸に植松被告と面会を続けている。
重度身体障害者とボランティアの奮闘を描いたルポルタージュ「こんな夜更けにバナナかよ」の作者だ。筋力が低下して運動機能に障害を来す難病の筋ジストロフィーを発症した故・鹿野靖明さんの日々を追った同作は、複数のノンフィクション賞に輝き、俳優の大泉洋さん主演で映画化もされた。
渡辺さんが植松被告との面会を望んだ原点は、単純な疑問だった。
ライターと施設職員という違いこそあれ、同じく重度障害者と間近に向き合いながら、その出会いに感謝している自分と、彼らの存在を全否定する被告との違いは、一体何なのか。
今年3月、被告に初めて宛てた手紙にはこうしたためた。
〈鹿野さんの存在は不幸を作るどころか、私の人生を大きく切り開くきっかけをもたらしてくれた〉
命がけのわがまま
19年前の2000年。知己を通じて取材してみないかと言われ、鹿野さんと出会った。すでに症状が進行し、ほとんど寝たきりの状態。両手の指が少し動くだけだ。喉には人工呼吸器を付け、そこにたまる痰の吸引のために、24時間体制で誰かが付き添っていなければならない。
人の手を借りなければ1日と命が持たないその人は、「生きる」ことに遠慮がなかった。「こんな夜更けにバナナ」のタイトルも、不眠症の鹿野さんが深夜に空腹を訴えて、疲労困憊で仮眠していたボランティアをたたき起こしたという逸話から来ている。
文庫で500ページを超える大作には、「支えられる障害者と支える側のボランティア」という定型を吹き飛ばすエピソードがこれでもかと並ぶ。
「鹿野さんは生きるために『命がけのわがまま』を言い続けた。生きる執念は我々よりもずっと強いし、障害によって制限が不自由なはずが、誰よりも自由に生きているような。何でだろうって思う。一人では何もできない人が、何でこんなに自由に生きているように見えるんだろうか。そういう逆転が、我々が鹿野さんから得たこと。誰だってある部分は障害者であり、健常者であるというとらえ方に変わってくる」
鹿野さんと関わったボランティアは500人以上。すぐ来なくなる人もいれば、ケンカ別れの人もいた。だが、少なからぬ人が渡辺さんのような思いを抱き、価値観や人生を変えていった。だからこそ、その対極に至った植松被告の背景が知りたかった。
社会にたくさんいる「時代の子」
植松被告の印象は、こう感じ取った。
「今の日本の風潮を体現した『時代の子』。いわゆる、ネット民の象徴であり、ネットに自己責任を書き込む人の象徴。要するに(植松が言うところの)『社会のお荷物』のせいで、自分たちがこれだけしんどいんだという風潮に洗脳された若者の一人。社会にたくさんいる人の象徴」
問答はあまりかみ合わない。報道などで知る家庭環境や生育歴を含め、「なぜ」を探ろうとするが、つかめない。
「礼儀正しいし、手紙も相手を気遣う。差入れすれば、ちゃんと礼状を書いてくる。自分の付き合いのある、いまの20代の若い人たちに誰もないような礼儀正しさがある。一方で、やんちゃな若者の時代があった。そのころとの連続性が全く見いだせない。どっちが本当の植松被告なのか分からない。今が本来の彼のような気もする」
あれだけの凶行と思想に至る「連続性」が見いだせない。どこかで、飛躍しすぎている。ライターとして取材を通じて、その謎を解こうとしている。
敗北感と、自分なりの務め
被告はかたくなだ。
「彼はあくまで障害者より優位にあって、〝心失者〟に奪われている時間や金、介護殺人や心中を犯してしまう親や家族を、解放してあげたんだと。自分は殺人者ではなく社会の救世主であるという確信は、ある種の信仰のように強固」
鹿野さんは42歳で亡くなった。2年4カ月で幕を閉じた密着取材をまとめた著書のエピローグを、渡辺さんはこう締めくくる。
〈生きるのをあきらめないこと。
そして、人との関わりをあきらめないこと。
人が生きるとは、死ぬとは、おそらくそういうことなのだろう、と私は思い始めている〉
あの障害者に出会わなければ、今の私はいなかった―。
この、違い。
「そこだけが、私が彼に会う理由。やっぱり、大切な問題だと思う。自分のこれまでの体験を発信していくことが、植松被告や、同調する人たちへの何よりの反論になるはず」
これからも拘置所に足を運び、アクリル板越しに問い、自分の経験を伝える。求める答えは見つかりそうにないが、彼がどう変わっていくのか見届けたい。
「それが、障害のある多くの友人から人生について教わってきた、自分の務めでもあるから」
あの男を完全に否定できるか
障害者の排除を正義と言ってはばからない植松被告の主張は、現代に急に降ってわいた思想ではない。
人間を生産性や能力で測り、「弱者」を自己責任と切り捨てる―。
こうした風潮は、優秀な遺伝子のみを保護し、優秀な子孫を残そうという「優生学」を起源とした優生思想によって正当化されてきた。
立正大学文学部の田坂さつき教授はやまゆり園の事件を受けて2017年9月から約4月間、哲学科の選択必修科目「倫理学の基本諸問題」でここに踏み込んでいった。
講義の初回、教室のスクリーンに映し出されたのはナチス・ドイツの独裁者ヒトラーだった。
ナチス・ドイツは1939年、ユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)の前段とされる「安楽死政策」に着手、多くの精神・知的障害者や遺伝病患者らを殺害した。その数は20万人以上とされる。
映像が終わると、田坂教授は学生にこう問うた。
「ナチスに『生きるに値しない命を終わらせる行為』を実行に移させた思想は、今も残っていないだろうか」
「優生学」は日本でも戦前から研究され、戦後の1948年に「不良な子孫の出生防止」を目的に施行された旧優生保護法に色濃く反映された。
同法は、ナチス・ドイツの「断種法」の考えを参考にした戦前の国民優生法を前身とし、知的障害や遺伝性疾患などを理由に同意なき不妊手術を認めた。同意を条件としながらハンセン病患者への不妊手術も、強制隔離の下では実質的に強制だったとされる。
96年に母体保護法に改正されるまで強制不妊が続いたが、国の施策が顧みられるようになったのはつい最近のことだ。強者が生き残り、弱者が駆逐される「適者生存」「自然淘汰」の考えは深く根付き、事あるごとに日本社会の表層に顔をのぞかせてきた。
田坂は、学生たちに再び問う。
「優生学的な思想は残っていないか、あの事件を起こした男のような考えは、君たちの奥底に少しもないと否定できるだろうか」
自分の差別意識と闘うために
講義にはゲストとして障害のある当事者や、当事者らと深く関わる人たちが登壇した。主にドキュメンタリー作品を手掛ける映画監督・野澤和之さんも、その一人だ。
在日朝鮮人やハンセン病の元患者夫婦などを題材にしてきた野澤さんは、映画を撮る理由、それは「僕自身の差別の心と闘うこと」であり、その原点に「後で自分をたたきたくなる」という出来事があると明かす。
ハンセン病の元患者の友人が暮らしていた施設を訪ねた時だ。1990年代の初めごろと覚えている。
「野澤君、風呂入っていけって言われたんです。でもタオルで拭いて、入ったふりをして…。ハンセン病はうつらないし、問題ないのに、僕は風呂に入れなかった。これが僕自身の差別です。強い反省の上に生きているんです」
思い出すと痛みを伴うという過去を振り返りながらこう続けた。
「差別はなくならない。人間存在そのものが差別、偏見というものをはらんでいる。大事なのは、人間は差別をするんだという意識を受け入れること。そういう存在だということを分かること」
ある男子学生が手を挙げた。
「自分の差別意識と闘うためには、どうすればいいのですか」
田坂教授と野澤さんは、思わず頬を緩めた。講義開始当初は、やまゆり園事件が突きつける現実に向き合えなかった生徒たちは、少しずつ変わり始めていた。
自己責任と、弱者と
学生たちの反応に充実感を得る一方で、田坂教授の胸には複雑な感情が去来していた。
自由とは何か。そう聞くと、最近の学生は漏れなく「自由には責任が伴う」と答えるという。そこには、自己責任という考えにとらわれ、逃げ場をなくしている若者たちの現在が垣間見える。
「われわれの世代とは異なり、今の若者は生きづらい状況に陥っても、自己責任と考えることが浸透しているように思う。徹底した自己責任教育をされ、いじめも、いじめられる側に問題があると考えがちだし、自分で問題解決すべきだと思っているせいか、『ブラックバイト』にも耐えてしまうことが多い」
田坂教授の脳裏には、厳しいアルバイトをこなし、普段昼食を取らず、交通費の節約のため徒歩で大学に通っていた学生の姿が浮かぶ。その学生は社会を責めようとはしなかった。
「かつて学生は社会の在り方を批判することで自己責任とは考えなかったが、今の学生はそれをしない。他者に助けを求めず、自分自身を追い込んでしまう。自分のことでもそうなのだから、社会的に立場が弱い障害者が自己責任を負わされていることに、疑問を感じるのはなおさら難しい」
そして、こう続ける。
「現代は競争社会で生産性が重視される。人はさまざまな『物差し』で人を測り、あいつよりましだ、と自尊心を保とうとする。自分は障害者よりもまし、と考える差別意識は自尊感情の基盤にあるような気がする。そうなると、社会的に弱い人の立場から社会を見直すという視点に立つことは難しくなる」
世の中は変わらない、でも自分は?
講義を機に優生思想に抗おうとする萌芽は、そこかしこで見られた。
田坂教授のゼミ生だった赤嶺圭一朗さんは、沖縄からミュージシャンになるために上京してきた。得意のギターを生かして障害者通所施設でボランティアに参加したことをきっかけに、アルバイトを経て、最終的に施設の運営母体である社会福祉法人に就職した。
事件発生当初は「何か大きなことが起きたんだなあと傍観する感じだった」という青年は、施設の利用者と接するうちに、ゼミで学ぶうちに、事件を我が事として捉えるようになった。
最初は施設の利用者とどうコミュニケーションを取っていいか分からず、戸惑うことが多かった。だが、徐々にそれは変わった。
「ある青年は『はい』と答えるときに目を上に向けるんです。その人独自の伝え方が分かるようになって達成感があったし、むしろ自分がエネルギーをもらっているような感じがしました」
一方で、自らに沸く素直な負の感情も吐露する。
「僕も(利用者に対して)腹立たしいときもあります。こんなに頑張っているのに、なぜそんなに怒るのって。そんなふうに感じる僕自身が嫌にもなります」
障害者差別だけではない。インターネットにはヘイトスピーチが並び、政治家が平然と「LGBT(性的マイノリティー)は生産性がない」と発言する。教室のいじめ、会社でのパワハラ。不寛容な社会は、少数弱者をどんどんと追い詰めていく。
赤嶺さんはこう語る。
「あの犯人は社会がつくりだしたという見方もできる。でも、許せない。それが一番です。差別、偏見を完全になくせるとは言えないけど、こちらからどんどんアプローチして、なくしていきたい。どんなに障害が重くても、一人一人、人格や個性があることを示したい。それが相模原事件に抗うことにつながると思っています」
世の中が変わるかどうかはわからない。ただ、変わろうとしている自分がいることだけは、確かだ。
2020年が明けると、すぐに裁判は始まる。判決は、3月16日に言い渡される予定となっている。