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資料センター代表・斎藤真弘さん
米軍機墜落“事件”横浜と沖縄【16】声上げる「義務」感じ

社会 | 神奈川新聞 | 2017年10月17日(火) 11:29

語り継ぐつどいで、日吉台中の生徒らに和枝さん親子の思いを伝える斎藤さん(右)=9月23日、港の見える丘公園
語り継ぐつどいで、日吉台中の生徒らに和枝さん親子の思いを伝える斎藤さん(右)=9月23日、港の見える丘公園

 「和枝さんたち母子の願いは何だったのでしょうか」。9月下旬、肌寒い秋風が吹き抜ける港の見える丘公園(横浜市中区)。母が幼い子を優しく抱く「愛の母子像」前で、斎藤真弘さん(76)=同市緑区=の声は涙で震えた。「思いを継ぎ、声を広げていきましょう」

 1977年9月27日、同市青葉区(当時・緑区)の住宅地に米軍機が墜落、炎上した。母親の土志田和枝さん=享年(31)と、裕一郎ちゃん=同(3)、康弘ちゃん=同(1)=の幼い兄弟が犠牲となった。

 二度と繰り返さないと、斎藤さんは語り継ぐ。墜落から40年、この日企画した集いには100人ほどが集まった。和枝さんら家族を伝える朗読劇に挑む日吉台中学校(同市港北区)演劇部の生徒ら約15人には、像に込められた思いを語った。

 「全身やけどの治療をしていた和枝さんは2人の子は他の病院にいると信じ、支えにしていた」。和枝さんに愛息の死を1年4カ月間告げられなかった家族の苦しみも伝えた。「もう一度2人を抱きたかった。和枝さんの願いをかなえようと、像が建ったんだ」

■ ■ ■
 斎藤さんは自宅に「横浜米軍機墜落事故平和資料センター」を設けている。関連資料を残し、語り部として凄惨(せいさん)な“事件”を継承してきた。

 原点は発生翌日、現場で見た光景だ。バイクで約15分、規制線の中ではいまだ蒸気が上がっていた。当時3人の子を持つ親として「こんなことを起こさせてはいけない。忘れてしまうのは許されないと思った」。

 間もなく被害者の支援活動に参加した。新聞の切り抜きや写真など当初は段ボール2箱だった資料は、4畳半に収まらないほどに増えた。詩歌集や冊子を発行し、昨年1月にはこれまでの歩みを「横浜米軍墜落事件年表」として1冊にまとめ、犠牲者や遺族の言葉をふんだんに盛り込んだ。年4回各200部ほど発行する「かわら版」も継続し、第43号を数える。

■ ■ ■
 2013年、沖縄・伊江島の「ヌチドゥタカラの家」を訪ねた。戦争を記録し、「命こそ宝」の名を冠した反戦平和資料館。設立したのは、戦後の米軍の横暴を非暴力で訴え、「沖縄のガンジー」と呼ばれた土地闘争のリーダー阿波根昌鴻さん=享年(101)=だ。

 和枝さんから名前をとったバラの苗木を植える一方、同館を引き継ぐ謝花悦子さんから、家や土地を武力で強奪された島民の苦しみ、沖縄県民を巻き込むまでに膨らんだ抵抗の歩みを聞き、思いを強くした。

 「被害を受けても声を上げられない人たちがいる。第三者の自分には墜落問題に向き合い、声を上げる義務があり、課せられた使命だと体の底から感じている。(墜落の)対策は今も講じられていない。問題は終わっていない」

 今年8月には沖縄の伊波中学校(沖縄県うるま市)の生徒にも母子像前で横浜の墜落を語った。生徒たちは58年前に地元の小学校で起きた墜落をテーマに劇を演じる。横浜で開かれた全国大会の前日、和枝さんらに思いをはせたいと優しく像を拭き、手を合わせた。

 「今まで(のつどいで)は私が掃除してきれいな状態にした上で、皆さんに黙とうしてもらっていた。黙とうだけでなく、一緒に掃除してもらうのは初めてだったが、よりつながりを感じることができた」

 センターを引き継ぐ人はいない。年齢を重ね、体調に不安も抱える。しかし、日吉台中や伊波中のように若い世代が自分のこととして“事件”を考え、思いを込めて語り継ごうとしている。

 「墜落で命が犠牲となることを繰り返さないために何ができるか。一人一人が考えなければならない」

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