
「お兄ちゃん、助けて」。その悲痛な一言が、今も土志田隆さん(68)=横浜市青葉区=の耳底に残る。
1977年9月27日、横浜市緑区(現・青葉区)の住宅地に米軍機が墜落した。搬送先の病院の集中治療室で、ようやく面会できた妹の和枝さん=当時(26)=は顔以外の全身を包帯で覆われ、力なくベッドに横たわっていた。全身の8割にやけどを負ったが、奇跡的に一命は取り留めた。
翌日、おいっ子の裕一郎ちゃん=同(3)=と康弘ちゃん=同(1)=が相次いで亡くなった。不思議と涙は出なかった。「事故のごたごたにのみ込まれて時間ばかりが過ぎていった。感情が追い付いてこなかったんでしょう」
和枝さんに2人が死亡したことは伝えない-。家族や主治医と相談し、そう決めた。子どもたちとの再会という目標だけが、長く、苦しい入院生活に耐える唯一の支えになるからだ。
その日から、子どもたちの安否を尋ねられたら「一生懸命頑張っているよ」と口を合わせ、子どもの死について書かれていないか新聞や雑誌を一つ一つ確認した。「妹のためにうそをつき通すしかないんだ、と自分に言い聞かせた」
やけどの治療が一段落し、精神的にも落ち着きを取り戻していくにつれ、和枝さんはわが子の様子を繰り返し尋ねるようになった。もう隠しきれない。79年1月、墜落から1年4カ月後に事実を打ち明けた。
「やっぱりそうだったんだ」。和枝さんはぽつりと言い、泣き崩れたり取り乱したりすることはなかった。後日、その場に立ち会った父から聞いた。
愛息を失った悲しみと無念は日記に残されていた。
〈どんなに叫んでも子どもたちは私のところへは戻ってこない。もう二人とも手の届かないところへ行ってしまった。あんな飛行機さえ落ちてこなければ、今ごろは幸福に暮らしていることでしょう〉
それから3年。墜落から4年4カ月がたった82年1月、和枝さんは「心因性の呼吸困難」で息を引き取った。31歳だった。
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あの時、家にいなかったら。住宅のない山側にジェット機が落ちていれば-。
米軍機墜落から40年がたってなお、いくつもの「もし」が頭をもたげる。「事故によって和枝の人生は崩壊した。翻弄(ほんろう)され、完全に壊されてしまった」
亡くなるまで、子どもへの思いを人前で口にすることはめったになかった。土志田さんは「私たちを心配させまいと、気丈に振る舞っていたのかもしれない」と推し量る。
ふと考える。一命を取り留めた妹は幸せだったのだろうか、と。わが子を失い、治療だけに費やされた日々。楽しかった、よかったと思える瞬間はあったのか。思考は堂々巡りを繰り返し、答えが見つからない。
土志田さんのもとに講演の依頼が届く。だが、そのほとんどを断っている。「やっと苦しみから解放された。せめて安らかに眠らせてあげたい」。それが兄として、伯父としての切なる願いだ。
時折、頭上から米軍機の空気を切り裂くようなごう音が降ってくる。苦い思いとともに、妹の姿がよみがえる。
「あの日から何が変わったんだろう」