

「何の面影も残っていないねえ」
まだ夏の暑さが残る9月中旬の昼下がり。土志田隆さん(68)=横浜市青葉区=は独りごち、記憶の糸をたぐり寄せるように周囲をゆっくりと見渡した。
東急田園都市線江田駅から歩いて約10分。緩やかな坂道に、一戸建て住宅が並ぶ。40年前、米軍機墜落の巻き添えで、妹と幼いおいっ子2人を亡くした。この場所を訪れるのは数年ぶりだ。自宅からわずか4キロ。悲しい記憶がよみがえると思うと、なかなか足を向けられなかった。
「そう、この辺りにジェット機の残骸が落ちていたんだと思う」。土志田さんは小さな公園の植え込みに面した舗装道路の一角を指さした。
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1977年9月27日午後1時20分。横浜市緑区(現・青葉区)の住宅地に、厚木基地(大和、綾瀬市)を飛び立った米軍偵察機ファントムが落ちた。ありふれた日常を一変させたあの日の記憶は、今も鮮明に脳裏に刻まれている。
「妹さんの家が燃えています」。知り合いの保険外交員の女性からの電話がきっかけだった。
すぐに妹の和枝さん=当時(26)=の家に電話をかけたが、受話器から響いてくるのは呼び出し音だけ。「現場でも見に出掛けているんだろう」。半信半疑のまま、土志田さんは経営する生花店から車を走らせた。
普段なら10分ほどの距離だが、警察が規制していたのか、道路は渋滞していた。ラジオが墜落の臨時ニュースを断続的に繰り返す。おいっ子の裕一郎ちゃん=同(3)、康弘ちゃん=同(1)=の顔が頭に浮かんだ。
時間の経過とともに、漠然とした不安が現実味を帯びた不安へと変わっていった。土志田さんはたまらず途中で車を止め、造成中の宅地に続く坂道を駆け出した。「心のどこかで、違っていてほしいと祈るような気持ちだった」

どのくらい走っただろう。人混みをかき分け、規制線越しに大きく開けた視界の先に、原形をとどめないほど大破したジェット機の残骸があった。少し離れた民家は骨組みだけを残して焼け落ち、門の前にエンジンらしき塊が転がっていた。妹の家だった。