
沖縄県うるま市の久高政治さん(69)は小学5年生の時、宮森小学校(同市)の米軍機墜落に遭遇した。1959年6月、児童12人(うち後遺症1人)を含む18人が犠牲となり、200人以上が負傷した大惨事だった。記憶を失い、ショックを抱えることもないまま、中学・高校時代を地元で過ごした。
黒焦げとなっためいの遺体を確認し、親戚の男性が自殺した、と大学時代に知る。
「現場に立ち会った人、それも親戚が心を痛め、苦しみ、最後は自ら命を絶った。これほどまでに人生を狂わせる事件だったんだと、彼を通じて追体験し、初めてわが事になった」
墜落時の記憶はほとんどない。しかし、一度刻まれた思いが消えることはなかった。
退職まで数年を残したころ、2009年の発生50年の節目を前に継承活動が動きだしたと知り、手伝いを申し出た。以来、米軍機墜落を語り継ぐNPO法人「石川・宮森630会」の事務局長、続いて会長を務める。
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「事故と言うのはぬるすぎる」。だから“事件”と呼ぶ。
なぜ沖縄では今も宮森小の米軍機墜落への関心が高いのか。強調するのが、基地問題がいまだに解決していないという現実だ。
凄惨(せいさん)を極めた沖縄戦が終結し、戦火を生き抜きようやく平和が訪れると思ったのもつかの間、日本から切り離され、米軍統治下に置かれた。「復帰後も基地負担を強いられ、事件事故の危険にさらされ続けている。今も頭上を米軍機が飛び交い、いつ墜落するか分からない。明日かもしれない、今日かもしれない。いや、この瞬間に落ちてきてもおかしくはない」
宮森小の墜落から2年後の61年にも同じうるま市内の集落に米軍機が落ち、2人が犠牲となった。昨年12月には名護市の沿岸部で新型輸送機オスプレイが大破している。「最寄りの集落までわずか数百メートル。オスプレイの飛行速度を考えれば、数秒の差で集落に落ちていたかもしれない」
凶悪事件も後を絶たない。うるま市内だけをみても宮森小に墜落する4年前の55年、6歳の女児が米兵に拉致、暴行された上、殺害され、嘉手納町内のごみ捨て場に遺棄された。昨年4月には、20歳の女性会社員が元米兵の軍属に暴行され、殺害されている。
米軍機が頭上を通過する。「今日は比較的静かだ」と一顧だにしない。語気を強めて言葉を継いだ。
「58年前と何も変わっていない。宮森を語ることは、今の沖縄を語ることなんです」