
線香に火をともし、仏壇に手を合わせる。香炉から一筋の白い煙がゆっくりと立ち上る。視線の先には端正な顔立ちの若者の遺影。「晃…」。沖縄県読谷村の新垣ハルさん(88)は一人息子に呼び掛け、そっと目を閉じる。母一人子一人。親子の会話が始まった。
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1959年6月30日、同県うるま市の宮森小学校に米軍機が墜落した。当時、晃さんは2年生。新垣さんは勤務先の米軍基地で一報を伝え聞き、息子を捜して宮森小、沖縄本島中部の大規模病院を訪ね回った。
ようやく再会できた米軍病院で、晃さんは力なくベッドに横たわっていた。髪はちりぢりに焦げ、体中が焼けただれて紫色に変色していた。体を伸ばすことができず、小さく身を縮めている。変わり果てたわが子の姿に言葉を失った。
入院中、晃さんがにわかに押し黙ったことがある。目を離した隙に、新垣さんがバッグに入れていた手鏡で自身の姿を見たようだった。寝たきりだった晃さんは自らの相貌を知らなかった。絶句し、しばらくは新垣さんと目を合わせようとさえしなかった。
一命を取り留めたが、全身の50%以上にやけどを負い、皮膚の移植を繰り返した。心を閉ざし、ケロイドを気に病んで外出を拒む。「晃は何も悪くない。恥ずかしがることはない」と諭しても、どんなに暑い日でも長袖を着て肌を隠した。
米軍機墜落は、息子の快活な性格までも奪った。
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明るさが戻ったのは、陸上競技のおかげだった。長距離走で才能を発揮し、中学、高校ともに好成績を残した。琉球大学に進学し、体育教師という夢に向かって走り続けた。
取り戻したかに思えた幸せな日々はしかし、長くは続かなかった。20歳を過ぎたころから体調を崩し、血圧が上がり、めまいに悩まされた。やけどの後遺症で発汗機能が低下し、次第に内臓がむしばまれていた。医者には激しい運動を控えるよう伝えられていたが、陸上競技は生きがいだった。生きる力を与えてくれたが、死期を早める結果にもなった。
闘病生活の末、晃さんは自宅で静かに息を引き取った。享年23歳。米軍機墜落から17年がたっていた。
女手一つで育て上げた一人息子を奪われた。1度はつなぎ留めた命。喜びが大きかったからこそ、喪失感はなお深かった。
「悔しかった。なぜ私の願いはかなわないの、神様はいらっしゃらないんだなと思った」