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遺族・上間義盛さん(上)
米軍機墜落“事件”横浜と沖縄【2】弟犠牲「まるで戦場」

社会 | 神奈川新聞 | 2017年9月25日(月) 09:42

米軍機墜落で弟の芳武さんを亡くした上間さん。後方は芳武さんがブランコごと吹き飛ばされた現場写真 =沖縄県うるま市
米軍機墜落で弟の芳武さんを亡くした上間さん。後方は芳武さんがブランコごと吹き飛ばされた現場写真 =沖縄県うるま市

 午前7時。日差しはまだ柔らかく、ひんやりとした朝の空気が心地よい。

 地域の見守り活動を続ける沖縄県うるま市の上間義盛さん(74)が宮森小学校(同市)の校門をゆっくりと開ける。雨の日も風の日も、子どもたちを迎え入れるために続けてきた。

 思い出あふれる母校。しかし、似つかわしくない記憶がふとよみがえる。大人たちの怒号、母親の慟哭(どうこく)、そして弟の沈黙-。心の奥底に沈めてきた“事件”の断片だ。

■ ■ ■

 1959年6月30日、じっとりと汗ばむ蒸し暑い日だった。当時、宮森小近くの石川高校(同)の2年生。墜落する米軍機の爆音が穏やかな日常を切り裂いた。

 「落ちるぞ」。友人たちの声と同時に機体が住宅街に消え、黒煙が空高く上がった。校舎を飛び出し駆け出すと、徐々に鼓動が激しくなった。走っているからではない。近付く視界の先、宮森小には3人の弟が通っていた。

 米軍機は住宅街に墜落し、跳ね上がって宮森小の校舎に激突した。衝撃で燃料がまき散り、周囲は激しく炎上した。児童12人(うち後遺症1人)を含む18人が犠牲となり、200人以上が負傷する大惨事となった。子どもたちが校舎2階から飛び降りたり、火だるまとなって倒れ込んだりする一方、パイロットは脱出し無事だった。整備不良が原因だった。

 上間さんが高台を駆け降りること10分余、すでに米軍がバリケードを築き、敷地内には入れなかった。

 「どけ。中に入れろ」と父親たちが米兵に詰め寄り、母親たちが子どもの名前を叫びながら泣き崩れる。校舎は焼け落ち、頭上を覆う黒煙からは火の粉が舞い落ちていた。

 「まるで戦場だった」

■ ■ ■

 上間さんは弟たちが帰っていないかと自宅へ急いだ。無人だった。学校にいるのでは、いや帰っているかも。往復を繰り返すうち、2人の無事を知った。

 夕方、残る3年生の芳武さん=当時(9)=が遺体となって帰宅した。顔に大きな青あざが一つ。他に目立った傷はなかった。乗っていたブランコごと爆風で吹き飛ばされ、20メートルほど離れた屋外トイレのブロック塀にたたき付けられていた。即死だった。

 当日朝、芳武さんは頭痛を訴えて休みたがった。母に促され、ようやく学校に向かっていた。

 母は半狂乱に陥った。「『芳武、芳武』って、何度も呼んで泣き叫んでいた。抱きしめて離さない。父が引き離そうとしても、必死にすがりついてね」

 いたたまれず、ただぼうぜんと見つめるしかなかった。

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