土志田和枝さんと子ども2人をしのんで造られた「ハーブガーデン和枝園」が横浜市青葉区にある。和枝さんの父、土志田勇さん(享年82)の遺志を継ぎ、園主になったのが、和枝さんの2歳上の隆さん。勇さんが開館を待ち望んでいた資料室(同市緑区)で、米軍機墜落事故発生からの40年間を振り返る。
あの日を、そして、2人の幼子が亡くなり、和枝さんが受けた皮膚提供の手術や闘病生活の日々の記憶をたどる。
「子供たちが死亡したニュースは、絶対に本人には見せないようにしようと。亡くなったと話をしたのが、恐らく1年を過ぎたころだろうと思うのですが、そのときちょっと本人は鬱(うつ)の状態になってました」。ただ、隆さんはその場に居合わせたかどうか、記憶が抜け落ちているという。
和枝さんは630日ぶりに退院する。「皮膚提供をしていただいて命を取りとめることができた。そうした思いから自分が健康になったら皆さんに恩返しをしたいという気持ち、それが端々に出ていました」
だが、闘病生活のかいなく、事故から4年4カ月後に他界する。「そこまで頑張ってきたのにね。本当に残念でなりません。ただ、米軍やパイロットへの怒りの気持ちはもう全然…。恐らくなかったと思いますね。余裕がなかったというか」
懸命の看病の末、和枝さんをみとった勇さんは改めて三つの“使命”を見定めた。
2人の子どもを抱き寄せる和枝さんをモチーフにした「母子像」を1985年、横浜市中区の港の見える丘公園に建てた。二つ目は福祉の仕事をつくろうと、88年に社会福祉法人「和枝福祉会」を設立する。
「最終的にこの資料室ができるところまでは、親父も見られなかったんですけど」。2008年に勇さんが亡くなって4カ月後、和枝福祉会に事故を語り継ぐ資料室が設けられた。和枝さんが入院当時、勇さんと交わした筆談を収めたファイルなどが展示されている。
勇さんの死後、隆さんがハーブガーデン和枝園の園主を務めることになった。「父もそうですけど、問題を起こした米軍に関して、日本政府の問題とか言ったって始まらないと。まず、とにかく和枝のために何ができるかという方向性で始まったと思います」
ただ、私個人の意見と前置きした上で、「今でも日本政府の対応とか、40年前と少しも変わっていない状況ですかね。日米地位協定とか安全保障の部分が」。そう言い終えた後、「ただ、何か一つの政治活動に、亡くなったおいっこや和枝たちが一緒に巻き込まれちゃうのもかわいそうかなという感じもします。そっと見守ってほしいという気持ち、これはずっと変わらないですね」と言葉を継いだ。
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