
「今から思えば、あの頃が平和ぼけの始まりだったのかも知れない」
米軍機墜落の現場にいち早く駆けつけた神奈川新聞の元カメラマン岩崎隆久さん(70)。40年前、目の前に広がった凄惨(せいさん)な現場の記憶は遠のいていた。
「当時は(横浜・関内の)会社にいて、ジェットが落ちたというので、車で飛び出して現場に向かった。ただ、あの頃は米軍機の墜落事故が続いていたんだ。またか、という感じもあった」
覚えているのは、強烈な匂い。「ジェット燃料と、焼け焦げた民家と」。そこで、複数の人が病院に搬送されていると知った。
「ちょうど自分の子どももまだ小さかったから」。取材体制は墜落現場から、大やけどを追った土志田和枝さんと、その子どもたちの容体へとシフトした。
「熱心な記者は病院に通い詰めてね。だから、被害者がこんなに苦しんでいる事故を起こしやがって、という怒りはあった。でも、米軍や(機外に脱出して無事だった)パイロットへの怒りはあまりなかった気がする」
大変な事故が起きた。被害にあった人たちがかわいそう-。「世間も、われわれも、それで終わってしまった。持って行き場のない思いしか残らなかった」
言葉が不適切かもしれないがと前置きし、岩崎さんは打ち明けた。「大きな市街地に落ちていたらもっと大変だったぞ、という雰囲気があった。明確にそう思った記憶があるわけではないけれど」
墜落現場周辺は現在、開発され、学校なども並ぶ閑静な住宅地となっている。だが、その上空を米軍機が飛び交う様はかつてと変わらない。
戦争の記憶が薄れ、地域が経済的に豊かになっていく中で社会を包んでいった“平和ぼけ”。今は小さな公園になっている現場を40年ぶりに訪れた岩崎さんは「今から思うと、もっとぎちぎち取材して、やるべきだったんだろうね。思い出して、教訓にしてとね」と、ごう音を残しては消えていく戦闘機を見上げた。
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