音楽プロモーター 宮治淳一(62)× 歌手 桑田佳祐(61)
縁のものがたり@砂交じりの友情 茅ケ崎が生んだ2人の音楽少年
社会 | 神奈川新聞 | 2017年9月14日(木) 12:46
茅ケ崎市のシンボル「烏帽子岩」に4月、米ロック歌手、エルビス・プレスリーの名曲「ブルー・スエード・シューズ」を歌う桑田佳祐(61)の声が響いた。1200万年前に誕生したといわれる岩礁に楽器が運ばれ、演奏が行われたのは初めて。きっかけは桑田の還暦を祝いたいという同級生たちの思いだった。
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茅ケ崎で生まれた2人の少年を、音楽の神様が引き寄せた。
桑田と、音楽プロモーター宮治淳一(62)は、茅ケ崎小学校と同市立第一中学校の9年間を共にした。
中学1年生の時、宮治はプロ野球の巨人軍で活躍していた長嶋茂雄に憧れ、野球チームに入団。そこに桑田がいた。「桑田はピッチャーだったけど、球が遅くてね。みんな遅い球を待てなくて、振っちゃうの」と愉快そうに振り返る。
同じクラスになった中学3年生の時、宮治が音楽好きだと知った桑田が「おまえ、ビートルズ好きなんだって。うちにレコードあるよ」と誘った。
五つ上の姉の影響で音楽に興味を持っていた宮治は「小遣いをためて月に1度、東京のレコード店を巡っていた。この身を音楽で焦がしたい。レコードの奴隷だった」というほど。一方の桑田は4歳上の姉が聴かせてくれたザ・ビートルズや、内山田洋とクール・ファイブなどの歌謡曲が子守唄代わりだった。
ビートルズのレコードは当時2枚しか持っていなかった宮治。桑田家には全てそろっていると聞き、「行く!」と即答。放課後は桑田の家に入り浸るようになった。
桑田は私立鎌倉学園高校、宮治は県立鎌倉高校に進学。思春期になり異性が気になり始めた桑田だったが、男子校に進んだことから女子生徒との交流がほとんどなく、悶々(もんもん)とした日々を過ごしていたという。
それぞれの青春を送っていた1973年9月。高校3年生の文化祭で、宮治が2日間にわたり、ロック・コンサートを企画した。
英リバプールにあるライブハウス「キャバーン・クラブ」で歌うビートルズの映像を頭に描き、廃棄物だったげた箱を教室に運ぶなどして、洞穴のような雰囲気を出そうと試みた。茅ケ崎周辺のバンドを参加させようと思った時、桑田の顔が頭に浮かんだ。
「バンドやっていたよね?」と宮治。
「鎌倉高校って共学だよね!」と鼻息を荒くした桑田。
本当はバンドなどやっていなかったが、町ですれ違う鎌高の女子生徒の制服が頭をよぎり、「そう。オレ、やってたバンド!」とうそをつき、出演が決定。
「女の子にもてたい!」と3回練習をしただけの即席バンドで、人生初の大舞台に臨んだ。
大トリを任された桑田たちだったが、ひとつ前の演者として茅ケ崎北陵高校の実力派が、矢沢永吉率いるキャロルの「レディー・セブンティーン」を軽快に歌い、観客を熱狂させていた。完全に萎縮。「負けるものか!」と向かったが、すでにメインは終わったと、教室はガラガラだった。
その差は歴然。しかし、そんな様子を物ともせず桑田は「69年の(カナダ)トロントライブで、ジョン・レノンがやったみたいに、即興でやろうぜ」と舞台に立った。
「マネー」などを歌う桑田に、宮治は「音楽はむちゃくちゃだけど、本物が現れた」と身震いがした。
小学6年生の時、「理由は分からないけれど、オレは音楽の道に進むな」と直感していたという宮治は、その姿を見て「オレは演奏ではなく聴くプロになろう」と決意した。
「素人だったけれど、桑田の表現力は桁違いだと感じた。こういう人がアーティストになるべきなんだ」
生まれて初めてのライブで、その楽しさを知った桑田は青山学院大学に進み、本格的にバンド活動を始める。
宮治は「表現者が生み出した音楽を、多くの人に聴いてもらう仕事に就こう」と、79年にディスコメイトレコードに入社。音楽プロモーターとして、その耳を生かしてきた。
ワーナーミュージック・ジャパンに転職してからは洋楽部門でエンヤらトップアーティストを手掛けてきた。「何億とある曲の中で、自分の食指が動いた曲を他の人が良いねと言ってくれるとうれしい」。いまも熱い気持ちは変わらない。
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76年、宮治は大学生時代の桑田のバンドを「サザンオールスターズ」と名付けた。コンサートのポスター作りのために、洋楽の曲名やアーティスト名などをもとにした即興の命名だった。