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ヘイトスピーチ考
時代の正体〈506〉カウンターの思い(上)当事者の覚悟を前に

社会 | 神奈川新聞 | 2017年8月16日(水) 10:30

拡声器のマイクを手にする津崎氏(中央)と警備に当たる県警の警察官=7月16日、川崎市中原区
拡声器のマイクを手にする津崎氏(中央)と警備に当たる県警の警察官=7月16日、川崎市中原区

【時代の正体取材班=石橋 学】全速力でペダルを踏んだ。自転車のサドルから腰を浮かせ、「立ちこぎ」になって志田晴美(49)は先を行く差別主義者の一団を追った。

 「絶対に前へ回り込んで、行く手を遮るんだ」

 ひとたびそのデモが実行に移されれば、取り返しのつかない人権侵害が引き起こされると知っているからこその行動だった。

 3連休の中日、7月16日午前11時すぎ、川崎市中原区の中原平和公園近くで実行されたヘイトデモは出発予定地から約400メートル先で行進を始めたのだった。抗議の声を上げようと待ち構えていた約500人の市民は不意を突かれ、一斉に駆けだすも警備の警察官が立ちはだかった。制止を振り切ってデモ隊に追い付くなり進路をふさごうと車道に体を投げ出すものの、次々と排除されていく。

 志田もまた、はなから体を張って止める気でいた。

 「自転車なら車道に出ても道交法に引っ掛からない。警察に止められることもないだろうって」

 荷台の籠に積んだ、近くの園芸店で買ったばかりのケイトウやリンドウが揺れる。抗議行動に参加し始めのころ、「きれいな花でも持っていれば、怖い目に遭わないかもしれない」と思い付いたおまじない。

 「でも、結局は止められて。追い付いたときにはデモはもう終わっていて、参加者がバスに乗り込むところだった」

 東京駅からチャーターしたマイクロバスで乗り付け、そのバスに乗って逃げるようにして走り去るという異様なデモ。参加者約20人、歩いた距離約300メートル、時間にして7分半。なにがしかの主張を広く世に訴えるために行われるものとは程遠い代物が、その目的をかえって明らかにしていた。

 差別主義者による「差別する自由」を誇示し、それによってさらに差別をあおるためのデモ-。

 それが標的とされた在日コリアンを痛めつけないはずがなかった。市内では1年1カ月ぶり、14回目となるヘイトデモは行政によって許可され、警察に守られるという不条理によって、その傷をより深いものにしたのだった。

あふれ出る敵意


 志田は2013年春からヘイトデモの現場で抗議の意思を示すカウンター行動に参加してきた。子どものころに遊び歩いた地元の川崎駅前で日の丸や旭日旗がはためくのを目の当たりにし、「あのころの自分が見たら恐怖を感じたと思う。自分たちの街の問題として何とかしたかった」。駅前繁華街で10回続いたヘイトデモがエスカレートし、在日コリアンが暮らす街、川崎区桜本を襲撃するまでになり、結成された「『ヘイトスピーチを許さない』かわさき市民ネットワーク」の一員になったのは自然な成り行きだった。

 「発狂するまで焦ればいい。一人残らず出ていくまで、じわじわ真綿で首を絞めてやる」。日常を送る家々を目がけてそう叫ぶ差別主義者の底なしの卑劣がどれだけ回復困難な被害をもたらすか。同じメンバーの在日3世、崔(チェ)江以子(カンイヂャ)(44)の姿を通して知っていった。

 差別をやめてほしいと被害を訴えたその人に対し、インターネット上では「嫌なら出ていけ」といった70万件にも上る差別書き込みがなされる。それだけの人が自分をいなくなってほしいと思っている、という現実が示され、拡散し続ける毎日。顔と名前をさらされ、いつ襲われるか分からず、子どもと一緒に近所を出歩けなくなって1年以上になる。

 6月に予告された新たなデモで何が行われるかは明らかだった。主催者は川崎でヘイトデモを繰り返してきた津崎尚道。その言動が人権侵害に当たるとして法務省から受けた勧告を無視してヘイトスピーチを続けていた。

 もう一人の首謀者は瀬戸弘幸。ナチズムを信奉し、ブログや街宣で排外思想を振りまく差別扇動者の代表格。人種差別団体「在日特権を許さない市民の会」の創設者、桜井誠が後継団体として立ち上げた極右政治団体「日本第一党」の最高顧問でもある。

 津崎は昨年6月5日、桜本を襲う「川崎発日本浄化デモ」の第3弾を計画したが、デモ出発前に開く集会のため申請した公園の使用許可が市から下りず、横浜地裁川崎支部からも桜本でのデモを禁じる仮処分決定が下された。場所を中原区に変更したが、抗議する市民に阻まれ、警察の説得もあって中止に追い込まれた。瀬戸はそのデモの参加者の一人だった。

 その2人が1年前にできなかったデモをやるという。予告するブログの文面からは「リベンジ」「日本人を見くびらない方がいい」と敵意があふれ出ていた。

忘れられない目


 志田の目にはガードレールから身を乗り出し、差別主義者を乗せたバスが走り去る最後の最後まで抗議の声を上げ続ける崔の姿が焼き付いている。

 あの日、「共に生きよう」「共に幸せに」と書いた横断幕を手にしていた崔はデモが始まったと知り、泣き叫びながら走った。近づけば動画を撮られ、また攻撃される。恐怖が頭をよぎったが、デモの列に津崎の姿を懸命に捜した。バスに乗り込もうとしている暗く濁ったその目を見据え、叫んだ。

 「なぜ、こんなことするのか。電話をください」

 津崎は目をそらした。

 崔は1年前のデモの現場で手紙を直接渡していた。

 〈良心でもってデモをやめてほしかったし、今もそう願っています〉〈桜本の子どもや若者たちは、津崎さん、あなた方に対して、「共に生きよう。共に幸せに」とメッセージをつづりました。その思いをどうか受け取ってください〉

 末尾に記された自身の携帯電話の番号は崔の覚悟にほかならなかった。

 その答えが再びのヘイトデモだった、という憔悴(しょうすい)を志田は思う。

 「崔さんの表情にはいろいろな感情が映っていた。痛めつけられている苦しさ。差別主義者が警察に守られているという悔しさ。それでも子どもたちとの約束を果たそうと必死になっている顔だった」

 志田にも津崎の忘れられない目があった。13年5月12日、川崎で最初のヘイトデモでのことだった。志田は沿道から津崎に向かって「帰れ」と声を張り上げた。気付いた津崎が憎悪に満ちたまなざしを向けてきた。

 「朝鮮人、朝鮮人」

 背筋に冷たいものを感じた。「この人たちにとっては抗議している私たちも排斥の対象なんだ」

 もちろんマイノリティーである在日コリアンが受ける差別による傷とマジョリティーの傷は同じではない。だが、だからこそ自分の問題として放置してはいけない、果たすべき役割があると思った。

 
 

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