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「海軍の宿」の記憶
下宿の少女の戦争(上)「戦争は嫌だ」勅諭に水兵は泣いた

社会 | 神奈川新聞 | 2017年8月15日(火) 02:00

 戦争の経験を忘れ、教育勅語のような価値観が持ち出される今に「あのころ」が重なる。「海軍びいき」を自任し、兵隊一人一人を個人として見つめた人に、戦時の記憶を聞いた。



若い水兵に囲まれ、軍港に育った木村禮子さん。自らを「戦争っ子」と言う=横須賀市
若い水兵に囲まれ、軍港に育った木村禮子さん。自らを「戦争っ子」と言う=横須賀市

 「戦争に行くの嫌だよ、死ぬの嫌だよ、と駄々っ子みたいに足ずりして泣いたんです」

 米国との戦争が始まる少し前、軍港の町での話だ。横須賀市に住む元国語教諭の木村禮子さん(88)は幼いころ、家に起居した若い水兵の姿をはっきりと覚えている。

 「死は鴻毛(こうもう)よりも軽し」と将兵に教え込んだ軍人勅諭に背く本音を、この家の中では聞くことができた。

 木村さんの母は1930年代半ば、市内の自宅で海軍指定下宿を営んでいた。艦艇の機関操作や造船技術を学ぶ海軍工機学校の練習生10人弱が、日曜ごとに泊まりに来た。休暇で船を離れる「上陸」の一日を過ごす家庭の代わりだった。

 実家で「戦争が嫌だ」などと真情を吐露すれば両親を心配させるだろう。けれども下宿ならば、気の置けない仲間も、母親や妹のような木村さん母子もいる。「話をしやすかったんでしょう、私と母には何でも話をしてくれたの」

 戦争は嫌だと泣く10代の青年を前に、他の練習生も、隣室に間借りした兵曹も黙って下を向いているしかなかったという。やっぱり誰だって死にたくないんだ、と木村さんはそのとき思った。

蜂の大群のように

 1941年に米国との戦争が始まるころに下宿はやめたが、母子を慕う工機学校の卒業生が時折、上陸の機会に立ち寄ってくれた。


ミッドウェー海戦を伝えた1942年6月11日付の本紙。「我方の損害」に「航空母艦一隻喪失、同一隻大破」とあるが実際は4隻を失った。そのことは戦後まで伏せられた
ミッドウェー海戦を伝えた1942年6月11日付の本紙。「我方の損害」に「航空母艦一隻喪失、同一隻大破」とあるが実際は4隻を失った。そのことは戦後まで伏せられた

 「まるで蜂の大群が押し寄せたように戦闘機に襲われたと、ぽつん、ぽつんと打ち明けてくれました」。日本が大きく劣勢に傾いた1942年6月のミッドウェー海戦のことだった。

 「その人は身軽な駆逐艦に乗っていたから何とか逃げられたそうです。世間では海戦の華々しい映画が公開されていましたが…」

 同月11日の本紙は2隻の米空母を撃沈したと喧伝(けんでん)した。だが本当は1隻だけで、対する日本は4隻もの空母を失っていた。水兵の話から、木村さんは「実際は負けている」と悟った。

わざと廃兵に

 泣いた水兵には後日談がある。1945年に入っていただろうか、かつて下宿した2人の海軍下士官が訪れて語った。

 工機学校のある教官が、泥酔した水兵を殴る蹴るして鼓膜を破り、軍法会議にかけられた。廃兵となった水兵は除隊され郷里へ帰り、非を認めた教官は自ら激戦地への赴任を申し出た-。

 陸海軍は「天皇の軍隊」ゆえ、表向きは私的制裁を禁じていた。

 木村さんの記憶がつながった。泥酔したのは、あの泣いた水兵に違いない。そして殴った教官こそ、水兵を前に黙って下を向いた兵曹その人だった。

 「わざと廃兵にしたんじゃないかと思った。でも、そのことを聞いた時は頭の中がいっぱいになって何も言えなかった」

 結婚したばかりの兵曹が案じられた。上陸のたびに訪ねてくれた優しい彼はしかし、木村さんの家に二度と顔を見せることはなかった。

 
 

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