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民間徴用船の犠牲
慰霊の船旅(上)遺族の託した51通「そちらでお会いする日を」

社会 | 神奈川新聞 | 2017年8月13日(日) 09:12

 太平洋戦争で、旧日本軍に徴用され6万人余りが犠牲になった民間船員たち。その多くが眠る南シナ海へ、海技教育機構(JMETS、横浜市中区)の練習船「銀河丸」(6185トン)が“慰霊の旅”に横浜港から出港した。海に手向けるために遺族から託された51通の手紙には、永久(とわ)の平和を祈る強い思いが込められていた。


出航式であいさつする日本殉職船員顕彰会の植村理事長=5日、銀河丸
出航式であいさつする日本殉職船員顕彰会の植村理事長=5日、銀河丸

 真夏の太陽が照りつける5日昼すぎ。横浜港・新港ふ頭からシンガポールへの遠洋航海に向かう銀河丸の後部甲板で出航式が始まった。船乗りを目指す大学と高専の航海科、機関科の実習生164人と乗組員51人が純白の制服姿で臨んだ。

 今回の遠洋航海に合わせて、日本殉職船員顕彰会(東京都千代田区)は戦没船員の遺族らから手紙を募ってきた。植村保雄理事長は「若い実習生の方々が敬意を表されるなかで(慰霊式が)行われることに感動を禁じ得ません」とあいさつし、熊田公信船長に手紙の束を手渡した。

 熊田船長は「慰霊に当たり、お手紙とともにご遺族の思いも届けてまいりたい。永久の海の平和をお誓いしてまいる所存でございます」と応えた。

「思いがかなう」

 51通の手紙は封をしているため、その内容をうかがい知ることができない。その中で、98歳の女性は、南の海で亡くなった夫に宛てた手紙の内容を明らかにした。

 〈あなたに大変お世話になったこと感謝しています。あなたが一度目の遭難で無事に帰ってきて、再び海に出るときは、大変心配でした。それは、一度目の時に、たくさんの方が亡くなったのを知っていましたから。私はいま丈夫に暮らしています。いずれ、そちらでお会いできる日を楽しみにしています〉

 この女性は、熊田船長へのメッセージも寄せていた。

 〈主人が戦死してから70年余りの間、南方の海に手紙を送りたいと思っていました。今回、その思いがかない大変うれしく思います。よろしくお願いいたします〉

はるか南の海

 〈小さいうちに父を亡くしたので手紙を書いたことが一度もなかった。今回、初めて父に手紙を書く機会が得られて良かった〉。遺族からは感謝を記したメッセージが数多く寄せられた。


戦没船員の遺族から託された手紙を示す銀河丸乗組員
戦没船員の遺族から託された手紙を示す銀河丸乗組員

 87歳の男性は〈なにしろ73年前の海中に祈りを込めてと思うと感無量です。思い浮かぶことでいっぱいで、出来れば私も行って祈りたい位(くらい)です。かなわぬことでこの機会にと思うとただただ沢山(たくさん)のことが考えがまとまりません。でも、思いは届くことと祈ります。宜(よろ)しく頼みます。はるか南の海へと。ただ祈るのみです〉

 父親を亡くした女性は〈本当に思いがけないお申し出に11歳の少女に戻り改めて父を偲(しの)びなつかしさと寂しさに胸痛む日を過ごしました。やっと手紙も書き上げました。慰霊の海に散華され必ず父の許に届きます様にと毎朝遺影に手を合はせております〉

 亡き祖父のために母親がしたためた手紙を読んで涙した家族もいた。

 〈写真しか知らない祖父に少しでも近付けるような気がして大変感慨深いものがあります。83歳になる母も11歳の時に別れた時の気持ちを手紙に託すことができよかったと思います。また、それを孫(私の娘)も含め読ましてもらったことで母がどんなに祖父を思い続けたかが分かり涙が止まりませんでした〉

護衛なき輸送

 なぜ、民間船員に6万人余りもの犠牲が出たのか。

 日本が1941年に太平洋戦争の開戦に踏み切った最大の要因は、米国の対日石油全面禁輸によって米国に依存していた石油が確保できなくなったためだった。

 資源が乏しい日本は南方の資源地帯を占領する戦略を取った。石油や鉄鋼石、天然ゴム、ボーキサイトなどの資源を確保するため、ハワイ真珠湾の奇襲攻撃とともに南方地域に進出した。

 戦争が始まると、海上輸送を確保するため、戦時海運管理令によって日本の商船は全て国家管理に一元化された。資源の輸送に当たった輸送船の大半は護衛がなく、単独での輸送を強いられることになる。

 後には船団方式を取り入れて護衛船を付けて輸送したが、護衛船は急ごしらえの海防艦か水雷艇で、商船は格好の標的となった。商船が沈没した原因は潜水艦による魚雷攻撃が最も多く、次いで航空機による空爆や触雷、砲撃と続いた。

14歳の少年も

 日本殉職船員顕彰会によると、軍人の死亡率は陸軍20%、海軍16%といわれているが、徴用された商船船員は43%に達した。船員たちは十分な護衛を得られず、なすすべのないまま猛烈な攻撃を受け続け、軍人を上回る犠牲が出たことになる。

 犠牲者が増え続ける船員の不足を補うため「戦時特例」で養成期間を大幅に短縮した。国民学校高等科2年(現在の中学2年生)を卒業した子どもたちを海員養成所で教育して船員として動員した。

 戦争末期には修業期限を2カ月に短縮し、わずか14歳の少年たちが乗船して南方などに向かった。戦没船員6万人余りのうち、20歳未満は1万9046人、全体の3割以上に上った。

 「わが国の海運が今日の繁栄を迎えるまでに多くの船員が犠牲になられたことと、海の安全と平和の尊さ、そして命の大切さを深く考えていただきたい」

 実習生たちは出航式で、JMETSの野崎哲一理事長の言葉をかみしめた。

 
 

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