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平和つなぐ
兵士が記した日中戦争 横浜市史資料室で公開

社会 | 神奈川新聞 | 2019年5月24日(金) 10:22

「ある兵士の戦争-戦死の記録-」を紹介する羽田さん
「ある兵士の戦争-戦死の記録-」を紹介する羽田さん

 日中戦争が勃発した1937年に召集後、わずか1カ月余りで上海近郊で戦死した横浜生まれの歩兵の資料を展示した「ある兵士の戦争-戦死の記録-」が、横浜市史資料室(同市西区、市中央図書館地下1階)で開かれている。1人の兵士の姿から日中双方に多くの死者を出した日中戦争の実相が日記などから読み取れる。

 膨大な資料が残されていたのは、中区扇町の竹内進三さん=享年(30)。20歳で徴兵検査を受けた後に帰休除隊となり、当時は会社勤めをしていた。37年7月の盧溝橋事件から2カ月たった9月9日に充員召集され、甲府の第149連隊(津田部隊)に配属されてから陣中日記を記していた。

 日本にいる際は緊迫感が薄く、温泉旅館に宿泊し壮行会を開いていたが、上海に上陸した22日、日本軍に数多くの戦死者が出ている現実を目の当たりにする。前線に向かう行軍中に多く死体を発見。立ち寄った村では「大隊本部ニテ老母2死刑 キ銃ニテ子供2死刑」などと記載している。

 日本が宣戦布告をしないまま中国では戦線が急拡大し、上海郊外では交戦状態が続いていた。27日ごろから自身も戦闘に参加。津田部隊の戦死者や負傷者の名前を記録していたが、「昼夜銃声激シ」などと記した10月12日を最後に記載が途絶えた。竹内さんは3日後の15日に銃撃を受けて亡くなったと、戦死状況書に記されている。


「読売新聞従軍記者託便」の印が押された家族宛のはがき。戦地で無事でいることを新聞記者に託したとみられる=横浜市史資料室
「読売新聞従軍記者託便」の印が押された家族宛のはがき。戦地で無事でいることを新聞記者に託したとみられる=横浜市史資料室

 横浜から出征した多くの兵士が亡くなり、同年12月には津田部隊の201柱が横浜に帰郷。そのうち、竹内さんら中区出身の21柱の合同区民葬が横浜公園球場(現・横浜スタジアム)で営まれた。自宅には母と妻、そして子ども2人が残された。

 これらの資料は、当時4歳だった息子の春男さんがこれまでに市史資料室に寄贈した。家族に宛てて無事を伝えるはがきのほか、出征や葬列の写真もある。戦友が届けた竹内さんの認識票や血染めの千人針など、戦死の際に身に着けていた遺品を含めて約60点を展示している。

 展示を担当した羽田博昭調査研究員(61)は「資料からは、召集された出征兵士やその家族が直面した現実と、その思いが伝わる。横浜出身者を含めて多くの人たちが亡くなった日中戦争が、太平洋戦争の前の37年からすでに始まっていたことを改めて知ってほしい」と話している。

 7月10日まで。開室時間は午前9時半~午後5時。入場無料。日曜休室。問い合わせは市史資料室電話045(251)3260。

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