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時代の正体〈501〉横田弘さんと相模原事件【1】愛と正義を否定する

社会 | 神奈川新聞 | 2017年7月26日(水) 10:07

喜寿のお祝いの会で笑顔を見せる横田弘さん=2010年5月(一般社団法人REAVA提供)
喜寿のお祝いの会で笑顔を見せる横田弘さん=2010年5月(一般社団法人REAVA提供)

【時代の正体取材班=成田 洋樹】障害者運動の「伝説の人」が横浜市にいた。身体障害がある脳性まひ当事者の団体「青い芝の会神奈川県連合会」の会長だった故横田弘さん。1970年代から障害者差別と闘い続け、今もなお多くの人々に影響を与え続けている。19人が犠牲になった相模原障害者施設殺傷事件から1年。障害者運動の原点とされる横田さんの思想から私たちは何を学び取り、あの事件をどう乗り越えていくべきか。横田さんの訴えを、生前親交のあった脳性まひ当事者の渋谷治巳さん(61)、県立保健福祉大教授の臼井正樹さん(63)、二松学舎大専任講師の荒井裕樹さん(37)の証言などを基に振り返り、障害者差別への向き合い方について考える。

加害者は地域

 横田さんたちの運動の発端となった殺人事件は70年5月、横浜市金沢区で起きた。その経緯は、横田さんの主著「障害者殺しの思想」(現代書館)と荒井さんの著書「差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会『行動綱領』」(同)に詳しく記されている。

 重度の脳性まひがある2歳女児が母親に殺害された。3人いた子どものうち2人に障害があった。単身赴任の父親は週末に一時帰宅するのみで、母親が一手に介助していた。施設に預けることを希望したが、空きがないと断られた。自分と娘の将来を悲観した母親は娘を絞殺。同様の事件は70年代に相次いだ。

 横田さんら青い芝の会神奈川県連合会のメンバーが問題にしたのは、事件後の地元町内会の対応だった。母親への同情から減刑を求める嘆願運動を展開していた。横田さんは事件の根底に地域社会の差別意識があると著書の中で批判した。

 〈障害児を持った家庭がどれだけ世間から白い眼(め)で見られているのか。障害児を持ったという、ただそれだけで、それだけのことでその家で何か悪いことをしたのだ、という眼で見られる。そんな事実を私たちは長い間、身をもって経験しつづけているのである〉

 横田さんの怒りの矛先は、地域社会のゆがんだ善意に向かう。

 〈私たちは加害者である母親を責めることよりも、むしろ加害者をそこまで追い込んでいった人々の意識と、それによって生み出された状況をこそ問題にしているのだ〉

 〈事件が起きてから減刑運動を始める、そして、それがあたかも善いことであるかの如(ごと)くふるまう。なぜその前に障害児とその家族が穏やかな生活を送れるような温かい態度がとれなかったのだろう。私たちが一番恐ろしいのは、そうした地域の人々のもつエゴイズムなのである〉

 入所施設の不足が事件を招いたという見方が流布したことも問題視し、「障害者は殺される存在なのか」と問題提起した。

 〈多くの健全者が加害者の気持が分かるとか、障害児が殺されるのはやむを得ない、とか、施設をつくれとか、施設に入れてしまえば、とか考えるのはどうしたことなのだろう。やはり障害者(児)は悪なのだろうか。「本来、あってはならない存在」なのだろうか〉

 当時の刑法は殺人罪に3年以上の懲役を科すことができたが、検察側の求刑は2年だった。母親には情状酌量で懲役2年、執行猶予3年の判決が言い渡された。

ゆがんだ善意

 障害者をないがしろにする社会の反応に危機感を抱いた横田さんは、青い芝の会の理念となる行動綱領「われらかく行動する」を起草した(各項の条文は省略)。

 〈第1項 われらは自らがCP(脳性まひ)者であることを自覚する〉
 〈第2項 われらは強烈な自己主張を行なう〉
 〈第3項 われらは愛と正義を否定する〉
 〈第4項 われらは問題解決の路(みち)を選ばない〉

 脳性まひ当事者に対し、差別される存在であることを自覚(第1項)した上で、叫びにも近い自己主張(第2項)を求めた。第3項では、障害者の人生を阻む親の「愛」、地域や社会のゆがんだ善意をそれぞれ糾弾した。

 〈エゴを原点とした「親」によって私たち「障害者」はどれ程の抑圧、差別を受けているか。しかも、「愛」という名分の下にどれだけの「障害者」が抹殺されていることだろうか〉

 〈「障害者」を巨大コロニーに隔離収容することも「正義」であり、「障害者(児)」殺しの親たちを減刑運動という形で社会に組みこむことも「正義」であり(中略)「正義」によって疎外され、抑圧される「障害者」である私たちが何故(なぜ)「正義」を肯定しなければならないのだろうか。私たちは「正義」が絶対多数者側の論理である以上、断固としてこれを否定しなければならないのである〉

 第4項では妥協につながるとして問題解決の道を選ばず、問題提起を続けるとの決意を示した。

 70年代以降、横田さんたちは、さまざまな障害者差別への闘いを続けた。

 72年から74年にかけては、胎児に障害がある恐れがある場合に中絶を認める優生保護法改正案は「障害児を抹殺することに加え、障害者の存在そのものを否定する」として批判した。

 77年には川崎の路線バスが車いす利用者の乗車を拒否したことに対して抗議行動でバスを占拠した。79年の養護学校就学義務化を巡っては、障害児が普通学校で学ぶ機会が奪われて障害児と健常児を分ける教育を助長するとして反対運動を展開した。


横田さんが活動の拠点にしていた横浜市磯子区の事務所には、横田さん愛用の背広と靴と車いすが今も残されている
横田さんが活動の拠点にしていた横浜市磯子区の事務所には、横田さん愛用の背広と靴と車いすが今も残されている

 障害者差別を徹底的に批判した横田さんの共生へのまなざしは厳しかった。

 
 

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