
江戸時代の1611年に東北沿岸に大津波をもたらした「慶長三陸地震」の規模を巡り、新解釈が相次いでいる。国の評価ではマグニチュード(M)8・1だが、歴史の専門家が各地に残る古文書を再検討した結果、被害範囲は「三陸」では収まらず、地震規模も国の評価を上回るとして「慶長奥州地震」への改称を提案。この研究成果を基にした津波研究者の試算では、東日本大震災に匹敵するM9・0の超巨大地震だった可能性が指摘されている。東北の沖合で繰り返す「最大級」の再来間隔の見直しにつながる可能性もあり、注目されそうだ。
政府・地震調査委員会は慶長三陸地震について、海底がゆっくりとずれ動くことで震度が大きくならないまま津波が卓越する「津波地震」だったとみている。津波の襲来状況を書き留めた古文書が多く残る一方、揺れの被害に関する記録がほとんどないためだ。1896年の明治三陸地震も同じタイプだが、慶長については震源を北海道沖とする見方もあり、実態は詳しく分かっていない。
こうした現状を踏まえ、各地に残る史料を再検討した東北大災害科学国際研究所の蝦名裕一准教授は「従来の史料解釈に問題があり、地震の規模が過小評価されてきた」と定説に異議を唱える。
津波来襲直後に訪ねた岩手・大船渡の集落の描写などに関し、信ぴょう性に疑問が投げ掛けられていたスペイン人探検家ビスカイノの報告などを東日本大震災の被害状況と比較検証し、「記述は不自然ではなく、信頼性が高い」と判断した。三陸沿岸を調査中に海上で偶然、津波に遭遇したビスカイノの報告には、伝聞として三浦半島の浦賀でも若干の海面変動があったことをうかがわせる記述もあるという。
当時の被害記録は岩手や宮城だけでなく、福島にも残る。こうしたことから、蝦名准教授は「被害は(青森から宮城にかけての地域を意味する)三陸よりも広い範囲であった。福島なども含む『奥州』に改称すべきだ」と提唱している。
また、史料に記された津波到達点まで実際に浸水したと仮定し、北海道大の谷岡勇市郎教授らが震源などを試算した結果、岩手・宮城沖合の南北方向に約250キロ、東西方向には約100キロの断層が推定された。東日本大震災の震源断層より狭いが、谷岡教授は「断層は南北で二つに分かれており、北側が大きくずれることで地震や津波が巨大化した」とみる。
東北沖の最大級を巡っては、869年の貞観地震(M8・3以上)が東日本大震災に匹敵する規模だったとされる。このため、震災のような超巨大地震は「おおむね千年に1度起きる」との見方が定着しているが、谷岡教授は「少なくとも発生間隔は千年よりも短いのではないか」と指摘する。地震調査委は震災級はほかにも複数回あったとみているが、具体的な地震名は挙げていない。
歴史地震 解明の道半ば
歴史上の巨大地震を解く試みが、東日本大震災を機に広がりを見せている。発生の周期などを見極め、再来に備えるためだが、史料の記述を過大評価していたとして過去の発生に疑義が生じるケースもある。地震計のなかった時代にさかのぼり、