横須賀に配備される空母が「インディペンデンスからキティホークに交代する」との観測に強く反応したのは、横須賀よりも、むしろ艦載機の拠点である厚木基地の周辺自治体だった。
当時、大和市長の土屋侯保は「日常的な艦載機の騒音に苦悩しており、この交代が新たな騒音に発展するのではないかとの不安から、到底容認できる状況にない」と反発している。
ちょうどこの時期、米軍と隣り合う現実を見せつけられる出来事が、厚木基地の周辺を見舞った。
1998年1月の夕方。終業間際だった大和市役所の基地対策課に、国から連絡が入る。
「これから空母艦載機のNLP(夜間離着陸訓練)が行われます」
NLPは基地の滑走路を空母甲板に見立て、夜間に艦載機が何度も離着陸「タッチ・アンド・ゴー」を繰り返す訓練。艦載機のパイロットには欠かせない技能を磨く重要な訓練だが、基地の周辺には激しい騒音をもたらす。
通例では政府から基地周辺に、訓練実施の事前通告がなされるが、今回は実施間際の当日夕刻だった。騒音を緩和するため日本政府は既に、小笠原諸島の硫黄島に整備した訓練施設を米軍に提供していたが、ここもこのときの訓練では使われていない。異例ずくめの訓練だった。
本土の米軍基地の街には深夜まで激しい航空機騒音が降り注ぎ、地元自治体には住民からの騒音苦情が殺到した。
米軍が艦載機の訓練を急いだ理由には、中東情勢があった。湾岸戦争後も、米国とイラクは大量破壊兵器査察をめぐって対立を深めていく。イラクをけん制するため中東に派遣されていた空母ニミッツと交代するため、インディペンデンスは横須賀を出航することになっていた。
折しもこの時期、米国防長官のウィリアム・コーエンが来日していた。横須賀で出航を控えたインディペンデンスを訪れたコーエンは、乗員たちを「重要な任務だ。超大国の米国の力を見せつけてほしい」と激励した。異例ずくめだったNLPにも触れて「高い能力を保つために必要」と、理解を求めた。
このとき、大和市幹部は苦悩を漏らしている。
「極論するなら、空母が駄目なら日米安保も駄目、ということになる。安保と差し違えるぐらいの気持ちで空母配備に反対できるなら説得力も増すだろうが、日米安保を国民の大半が支持しているのが現実だ。空母問題に対しては正直、(厚木周辺は)手詰まりの状態だ」
横須賀にとっては3代目となる空母、キティホークが到着したのは、1998年8月11日だった。曇り空の早朝を、空母の巨体が近づいてきた。
「こんなに穏やかな中での空母配備は初めてだ」。入港を報じるテレビニュースを見ながら、神奈川県警の警備関係者がつぶやいた。街中や海上では市民団体などによるデモが繰り広げられたものの、その規模や運動量は、以前のミッドウェー、インディペンデンスの配備時と比べれば、はるかに小さなものになっていたからだ。
国内政局に生じた大きな変化も、背景にあったのかもしれない。ここ5年の間に、共産党を除く主要政治勢力が政権に就いた。保革の対立構図、反安保の旗印が薄らぐ中で「基地返還」「空母母港化返上」の声は、小さくなったかのようだった。
「日本国内の港を積極的に訪問したい」。会見した艦長のジャック・サマーナ大佐は意欲を見せながら、「キティホークは基本的に今までの空母の任務を継続する。必要なら湾岸へ出かけることもある」と、米軍の世界戦略の中核を空母が担うことをあらためて強調した。
キティホークはその後、2001年9月の米中枢同時テロなど、激動の国際安全保障環境に関与をし続けながら、2008年まで横須賀を母港とすることになる。
=敬称略、おわり (高橋 融生)