
【時代の正体取材班=田崎 基】日本国憲法が施行されて70年という節目の5月3日。安倍晋三首相は保守系組織の集会にビデオメッセージを寄せ、また読売新聞のインタビューに答える形で自身の「改憲提案」を披歴(ひれき)した。戦力不保持や海外での武力行使を禁じた9条への「自衛隊」明記。その真意は-。一線の憲法学者や政治学者らでつくる「立憲デモクラシーの会」は緊急会見を開き、警鐘を鳴らした。「看過できない危険がある」
精緻な理論破壊する
憲法学者・青井未帆さん(学習院大教授)
大きく二つに分けて指摘したい。
まず、安倍首相は9条1項と2項を残した状態で「自衛隊」を書き加えるだけ、と説明しているが、もたらされるであろう効果、結果は一見する以上に大きい。
二つ目は、軍、軍事力をどう扱うか、どう制御するかという課題は日本において明治の開国以来ずっと突き付けられてきた。この視点からすると、あまりにも恥ずかしい提案だという点だ。
◇危険はらむ
まず1点目。2014年から15年にかけて「憲法9条は集団的自衛権を認めない」という従来の解釈を変更したことで、たがが外れたと私は思っている。

だが、今なお9条は条文としてそこに存在しているからこそ邪魔になっている。別の言い方をすれば、9条1項、2項はまだ法として見なされているということ。安倍首相の提案では、この9条が法であるにふさわしい規律の力を持たなくなる、あるいは、論理破綻する。
9条の解釈は「武力行使は原則できない。だが例外的に武力行使できる場合がある」ということと「武力行使に当たらないから、できる」という二つのラインを引いて成り立っている。
「自衛隊」の明文化は、この積み上げてきた解釈の構図を「(武力行使が)原則できる」と逆転させる。
このことは(安全保障関連法制によって新たに認められた武器使用任務の一つである)米艦防護においてクリティカル(重大)な問題を提起している。この任務は「集団的自衛権の行使になる」という批判があったが、結局「武力行使に当たらない。警察権の行使だ」と説明されていた。
つまりこうした論点や説明がぐちゃぐちゃになっている中で、「自衛隊」を9条に書き込むと、武力行使の違法、限界の論理が破綻する。同時に(戦力不保持と交戦権を否定した)2項が無効化してしまうという危険性をはらんでいる。
◇軽薄な提案
次に2点目について。私たちがここで考えなければいけないのは、近代国家成立以来、軍、軍事力の統制は大きな課題だったということ。先の大戦では兵権の統制や統帥権の独立、軍人勅諭による動員ということについて、最終的に失敗した。
この失敗が日本国憲法の出発点だ。
この前提を踏まえると、9条1項、2項を残し「自衛隊」を明記するという発想はあまりに扱いが軽い。基本的に軍の論理とは、市民社会とぶつかる。だから細心の注意をもって制度設計しなければならない。

私はこうした観点から考えて、現行憲法の9条というのは非常に斬新な考え方であり、今なお武力行使の邪魔になっているということからも、この規定によって軍事力を統制する手法は、評価に値する試みであると思っている。
仮に、9条を変えるべきであるとしても、たくさんの命が失われたのだ、という過去を背負いながら真面目に議論しなければならない。自衛隊を書き込むとしても文言を書き加えるだけではなく、統治機構全般にわたる一つのパッケージとして「自衛隊」について論議すべきだ。
情緒論にすぎぬ理由
憲法学者・長谷部恭男さん(早稲田大教授)
安倍首相による9条の改正提案を額面通りに受け取るわけにはいかない。
何のために、現状を追認するためだけに9条を改正するのか。国のために命をささげる自衛隊、自衛官が違憲の存在だと言われないためだとか、自衛官が誇りと自信を持って活動できるようにするためだとかいう理由が示されている。

だがこれは純粋に情緒論にすぎない。
現状を追認するだけなのだから、この提案が実現したからといって、日本の安全保障がより堅固になるとか、日本がより安全になるということはない。
純粋に人の情緒に訴えかけているだけの提案だということが