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時代の正体〈455〉共生を目指す学校(上)能力を分かち合う 

社会 | 神奈川新聞 | 2017年3月20日(月) 11:15

重度の障害がある矢賀道子さん(中央)とじゃんけんをして遊ぶ子どもたちと大和教諭=2月27日、藤沢市立長後小学校
重度の障害がある矢賀道子さん(中央)とじゃんけんをして遊ぶ子どもたちと大和教諭=2月27日、藤沢市立長後小学校

 【時代の正体取材班=成田 洋樹】障害や学力の度合いで子どもたちを排除せず、誰もが居心地がいいと思える学校をどうつくるか-。能力主義が社会に浸透している中、そんな問題意識で子どもたちと向き合っている小学校教諭がいる。障害者への差別感情があらわになった相模原殺傷事件を教訓に、重度障害者と触れ合う機会を通じて「共に生きる」ことの意味を子どもたちと一緒に考えている。

 藤沢市立長後小学校2年担任の大和(やまと)俊広教諭(40)が昨年9月の保護者向け学級通信で取り上げたのは、夏休みのさなかの7月26日に起きた惨劇のことだった。

 〈日常的な顔とは思えぬ、不敵な笑みを浮かべる写真が新聞やワイドショーに…。意図を感じるのはボクだけなのでしょうか? 異常な思想を持った彼の異常な犯罪として片付けてしまっていいのだろうか?〉

 相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が犠牲になった大量殺傷事件。B4判の学級通信には問い掛けの文章が続く。

 〈教員志望だった彼の「障害者なんていなくなればいい」という発想と、ネット内とはいえ、彼を英雄視する人たちの広がりをどう考えればいいだろう?「生産性」とか「有用性」で人の命を値踏みする。そんな「優生思想」が、当たり前の世の中になろうとしているのだろうか? 学校で「多様な子どもたち」を相手に働く者として、憤りを感じる。でも、ボクら教員は何者かのせいにして、嘆いているだけでいいのだろうか?〉

 あの事件が投げ掛けていることは何なのだろうか。大和教諭は学校現場も問われていると問題提起する。

 〈学齢期から彼の周りに当たり前に障害者がいて、学校で生活を共にし、関係を取り結ぶ経験をしていたら、事件は起きただろうか? 学校の能力主義的「評価」が彼の思想に影響を与えたのではないか?〉

点数で序列化

 
 小学校では1年生から国語や算数のテストで点数が付けられることが少なくない。子どもたちは小さなころから競争を強いられることで、「何かができる、できない」で評価される能力主義が徐々に刷り込まれていく。

 大和教諭は、どの学年を受け持つときでも点数を付けないという。

 「点数よりもどこでつまずいているかを、子どもと教諭が確認することが大切。子どもの理解度によって授業での教え方が良かったかどうかも分かる。安易な序列化は差別意識をもたらすだけだ」

 学校には生活保護世帯や一人親家庭、発達障害のある子、親が外国籍のケースなどさまざまな事情を抱えた子どもたちがいる。学力格差も大きい。

 大和教諭は、子ども同士で「能力を分かち合う」という場面を増やすことを心掛けている。

 算数の授業では問題を早く解けた子が、まだ解けていない子の「ミニ先生」として寄り添う。九九が苦手な子がしばらく考えても問題を解けない場合、答えを教えてしまってもいいと大和教諭は考えている。

 「個人の能力を高めるには答えを教えるのは良くないことなのかもしれない。だが、時にできなかったり、分からなかったりすることも認めて共に生きていくには、能力を分かち合うという考え方が求められているのではないか。困っていれば誰かに頼んだり、目の前の相手を助けたりすることが当たり前と思えるような関係をつくることこそ大事なのではないか」

周囲が変わる

 
 大和教諭には苦い記憶がある。

 以前、低学年の担任だった時、特別支援学級に在籍する同じ学年の男子が、クラスに来て交流していた。運動会や音楽会、遠足などで行動を共にした。

 給食は毎日一緒に食べた。発達障害のある男子は教室内を立ち歩き回って声を上げたり、オルガンの上に乗ったりした。

 「給食中は座って食べようね」

 大和教諭が何度注意しても、変わらなかった。やりとりを見ていた子どもたちの一部も、男子に厳しいまなざしを向けるようになった。

 「立ってちゃ、だめだよ」

 大和教諭のいらだちが子どもたちに伝わってしまったようだった。中には、男子を羽交い締めにして席に座らせようとする子もいた。

 大和教諭はどう対処しようか悩みながらも、子どもたちに告げた。

 「(男子は)動き回りたいのだから仕方がない。誰にも迷惑をかけていないし、みんなも我慢できなかったら少しくらい立ち歩いてもいいよ」

 「問題行動」と捉えて男子の行為をやめさせようとするのではなく、クラス全体を覆いつつあった規律を少し緩めてみようと考えた。

 次第に子どもたちが男子を注意することがなくなり、立ち歩く男子に話しかけたり、冗談を言ったりする子が出てきた。男子にも笑顔が増えた。

 その後、給食が苦手で同じように立ち歩くようになった別の男子に対して注意する子もいなかった。周囲の受け止め方が変わり、勉強や運動が苦手な子のペースも尊重するようになった。

ありのままで

 
 大和教諭は、クラスの雰囲気が変わったことを実感した。

 「クラスメートが、ありのままの男子を受け入れるようになったのだと思う。規律を重んじて集団を一斉管理するような画一的な対応では、変わった行動をするとみられがちな子が周囲と関係を築きながら同じ空間で過ごすことは難しくなってしまう。本人の行動を変えようとするのではなく、周りが対処の仕方を変えることで十分対応できることは少なくない。子どもたちそれぞれの『ありのまま』を認めることで初めて、学校は誰もが過ごしやすい場になる」

 勉強や運動ができる、あいさつができる、並ぶときに列を乱さない、おとなしく座って授業を受けることができる…。学校教育が目指すべきとされる「子ども像」は、教諭から見た「教えやすい、好ましい子ども」にすぎないのではないか。教える側の都合で設けられた枠から排除されている子はいないか。大和教諭はそう問題提起した上で、学校現場や教育行政が「子どものため」として保護者に特別支援学級や特別支援学校を暗に勧めることが少なくない現状に対し、「安易に振り分けることは差別につながる」と警鐘を鳴らす。

 「共に生きる」とはどういうことなのだろうか-。

 
 

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