少年法が岐路に立つ。適用年齢を現行の20未満から18歳未満に引き下げるか否か、検討が続いている。発端は、2015年2月。川崎市の多摩川河川敷で中学1年の男子生徒(13)が少年3人に殺害された事件だった。少年の更生に必要なのは、厳罰か教育か。少年犯罪の「凶悪化」を印象づけた川崎中1殺害事件の実相を追い、考えた。(神奈川新聞・川島秀宜)
「強さはき違えていた」 元非行少年の出会いと改心
「男の子が産まれたんだって? おめでとう」。八田次郎さん(74)=名古屋市=は、神奈川県に住む男性(39)の携帯電話を鳴らした。男性は恐縮し、電話越しに頭を下げた。「ありがとうございます。先生」。2人は21年前、八街少年院(千葉県)で出会った。法務教官と、収容者として。
18歳の夏だった。男性は地元の箱根町で、年長者の集団に1人で因縁をつけ、殴りかかった。2回の逮捕歴があり、保護観察中だった。馬乗りになられた相手が抵抗しようとした刹那、男性は護身用に忍ばせていた折りたたみナイフで左胸を刺した。相手はヘリで病院に搬送された。男性は傷害と銃刀法違反の疑いで逮捕され、八街少年院に送られた。
少年院は、過酷だった。10キロ走と腕立て伏せ300回が日課。血尿も出た。私語は「不正会話」とみなされる。就寝前の日記はノート一面を埋めなければとがめられ、さらに1200字以上の作文が待っていた。ずっと押し通してきたわがままは一切許されず、規律をいや応なくたたき込まれた。退院の時期が近づくと、単独室に移された。黙想し、ひたすら過ちと向き合うと、出自を見つめるようになった。
男性は母子家庭で育った。光熱費の支払いもままならず、家財を売り払って生活費を工面していたという。母親が箱根町に働き口を見つけ、10歳でその社宅に転がり込んだ。貧困は母親の心身をむしばんだ。コップの水をこぼせば、ベルトを振り下ろされるようになった。
強くなりたい―。腕力と財力こそが強さと妄信した。母親と、自身を捨てた父親を、いつか殺してやると震えた。近隣中学の名うての不良と愚連隊を組んだ。高校を1年の1学期で退学し、小田原駅前で喝上げを繰り返した。
ヤクザになりたかった。極道は身近に開けていた。少年同士の抗争があれば、対立する暴力団がそれぞれを支援する現実。後に指定暴力団の2次団体で組長にのし上がった組員に目をかけられた。覚醒剤の快楽、斬り殺した人数を聞かされた。
「なぜ、生まれてきたんだろう」。単独室で、男性は独りごちるようになっていた。内省は深まりつつあった。八街少年院の次長だった八田さんは、当時をつぶさに覚えている。「過ちから目をそらさなかった。この子なら必ず更生できると思った」。11カ月後、男性は退院した。不良仲間が迎えに来たが、きっぱりと縁を切った。
7年がたった。26歳になった男性は、ブレークダンスに打ち込んでいた。小田原駅の地下街で練習していると、昔日の恩人が通りかかった。「先生」。呼び止められたその人は、あのときのようにほほ笑んでいた。小田原少年院に院長として転勤していた八田さんだった。男性は、非行少年の支援側に誘われた。以来、八田さんと近況を教え合う間柄だ。
「他人に認められるための手段は暴力だけだと思い込んでいた。強さをはき違えていた」と男性は10代を顧みる。「それを教えてくれたのは少年院の矯正教育だった」。八田さんは「子どもは、つまずきながら成長するもの。ボタンの掛け違いに自ら気づけない。彼は、まさにそうでした」。
少年の「凶悪化」になびいた世論、発端は川崎中1殺害事件
未成熟ゆえに更生の余地を重視する少年法がいま、岐路に立っている。適用年齢を18歳未満に引き下げるか否か、法制審議会(法相の諮問機関)の答申が近づく。発端は、川崎中1殺害事件だった。
「少年事件が非常に凶悪化している」
2015年2月、川崎市の多摩川河川敷で中学1年の男子生徒(13)が少年3人に殺害された事件から7日後。自民党の稲田朋美政調会長が言い放った。矛先は少年法に向けられた。「犯罪を予防する観点から、少年法が今の在り方でいいのか課題になる」
その3カ月後、自民党の特命委員会が事件現場を視察する。「凶悪犯罪については、少年法は必要がないのではないでしょうか」。男子生徒の父親の問題提起が続いた。
世論がなびいた。事件半年後に内閣府が実施したアンケート調査によると、少年の重大事件が「増えている」と答えた割合は8割近くに達し、5年前の調査より微増していた。「増えている」と感じる少年事件については、半数近くが「凶悪・粗暴化したもの」と答えた。
反して統計は真逆に推移していた。犯罪白書によると、少年事件は10年前の3分の1ほどに減少し、殺人のような凶悪事件も半減した。民意との落差はなぜ生じたのか。「メディアの影響が大きい」と、八田さんは指摘する。
日増しに過熱する報道は、男子生徒を全裸で真冬の多摩川を泳がせ、トイレで衣服を燃やして証拠の隠滅を図った経過を次々と明らかにしていった。一方、後の公判で認定されない誤報まがいの見立ても飛び交う。「複数の刃物を使用か」「結束バンドで拘束し殺害か」「草むらに遺棄し発見回避か」といったように。
「報道合戦の結果、事実以上の凶悪な犯人像が形づくられた。メディアは知らぬ間に社会不安をあおっていなかったか」。八田さんは問う。
報道と乖離した少年の実像 背景に強者に屈した「弱さ」
横浜拘置支所の面会室。弁護側から情状鑑定を引き受け、主犯格の少年(19)とアクリル板越しに向き合った臨床心理士の須藤明さん(60)は、面前の実像と、報道との乖離(かいり)を見ていた。
カッターナイフで執拗(しつよう)に切りつけた少年の攻撃性が連日、報道されていた。妻に「大丈夫なの?」と身を案じられた。
「かたくなだな」。少年の印象はむしろ、「防衛的」だった。生い立ちや内心に質問を向けると、はっきりと返答を拒まれた。4カ月で、計9回12時間に及んだ面会。大人に対する不信感と、極めて狭い人間関係で形づくられた虚勢が浮かんだ。そこにあったのは、「弱さ」だった。
行きつけの中華料理店の隅でひとり、キュウリのあえ物をつまみながら瓶ビールをあおる。地元の先輩が現れると、ばつが悪そうに肩をすぼめた。小中学校で2学年先輩だった男性2人は、少年の性格は「卑屈」なものだったと口をそろえる。「不良になりきれないから、そのまね事をしていた」
母親はフィリピン出身。その出自から、いわれなき中傷を受けた。父親からしつけの延長で殴られ、強い者に屈服した。そうした幼少からの劣等感と屈辱が、逆恨みから暴力と化し、年少の男子生徒に転嫁されたと、須藤さんは読み取った。16年2月の横浜地裁判決は、この鑑定内容をおおむね酌み取り、殺意の形成に成育環境に由来した「年齢不相応な未熟さ」が影響していると結論づけた。
「まさに少年事件だった」と須藤さんは振り返る。裏腹に、世論が厳罰化に振れた顛末(てんまつ)は「健全育成や矯正を重んじる少年法の趣旨に照らすと皮肉だ」。
16年6月に選挙権年齢を18歳以上に引き下げる改正公職選挙法が施行され、18年6月に18歳を成人とする改正民法が成立した。少年法の見直しも、この潮流を汲む。須藤さんは「法律の性質がまるで違う。年齢を合わせる必然性はどこにもない」といぶかる。
進む厳罰化 「セーフティーネット」の危機
少年による重大事件が起きるたび、少年法は厳罰化が進んだ。契機は、14歳の中学生が逮捕された神戸連続児童殺傷事件(1997年)だった。2001年に法改正され、刑罰の対象が16歳以上から14歳以上に引き下げられた。
12歳の少年による長崎男児誘拐殺人事件(03年)と、11歳の少女による佐世保同級生殺害事件(04年)が重なり、07年に少年院送致の下限が14歳から「おおむね12歳」に改正された。重大事件の犯罪被害者や遺族に対し、少年審判の傍聴が認められたのは08年。14年には、有期刑の上限が15年から20年に引き上げられた。
山口・光市母子殺害事件の上告審判決(12年)以降、少年による死者2人の事件で死刑が言い渡されている。「重い罪を犯した少年については、成人とほとんど変わらない処罰もあり得るようになった」と元浪速少年院長の菱田律子さん(66)=和歌山市=はみる。
現行法は、20歳未満の非行事件について、家庭裁判所送致を原則とする。家裁調査官や鑑別所は審判の資料として事件の背景や原因を調べ、審判が開かれれば、検察官送致(逆送)、保護処分(少年院送致や保護観察)、不処分といった処遇が決まる。審判が開かれない場合や不処分でも、教育的な措置が取られる。
菱田さんによると、少年の非行内容のほとんどは、成人で例えると起訴猶予に相当する比較的軽い事件だ。18、19歳が少年法の保護対象から外れれば、何ら処罰を受けずに社会に復帰し、従来なされていた更生の機会を失う。
菱田さんは「再犯率は高まるでしょう。治安はむしろ悪化するかもしれない」と警告する。犯罪を起こす恐れのある虞犯(ぐはん)も切り捨てられかねない。「少年法は、そうした未成年のセーフティーネットでもある」
3人が死傷した西鉄バスジャック事件(00年)で、17歳の少年に牛刀で切りつけられた山口由美子さん(69)=佐賀市=は、年齢の引き下げは「被害者の根本的な救済にならない」と反対する。
唇や首に負った古傷の痛みは癒えず、冬場はとりわけうずくという。ただ、少年に厳罰を望みはしなかった。事件は不遇な成育環境に起因すると知ったからだ。少年は精神科病院に入院させられ、仮退院中だった。
少年院で面会した少年は、過ちを悔い、山口さんに低頭して謝罪したという。子どもに必要なのは「刑罰でなく教育」と確信した瞬間だった。
川崎中1殺害事件 2015年2月20日に川崎市の多摩川河川敷で中学1年の上村遼太さん(13)の遺体が見つかり、7日後に神奈川県警は17~18歳の少年3人を殺人容疑で逮捕。3人は横浜家裁送致後に逆送され、横浜地検は殺人と傷害罪で主犯少年を、傷害致死罪でほか2人を起訴した。主犯を懲役9年以上13年以下、遼太さんを呼び出した少年を懲役4年以上6年6月以下の不定期刑とする1審判決が16年3月までに確定。凶器を主犯に手渡した少年は無罪を主張し、懲役6年以上10年以下とした1、2審判決を不服として上告したが、最高裁は17年1月に棄却し、全員が実刑となった。