
東日本大震災の津波で大きな被害が出た宮城県南三陸町では、800人以上が死亡、行方不明になった。あれから12年。苦難の日々を経て前を向き始めた人たちの胸には、さまざまな思いが去来している。
古里取り戻したい 大沼ほのかさん(24)

「12歳で被災して、もう12年。一回り大きくなりました」
震災当時、海に近い南三陸町歌津地区の小学校に通っていた大沼ほのかさん(24)にとって、災後の歩みは自らの原点を見つめ直す旅でもあった。
卒業式を1週間後に控えていたあの日。突然の激しい揺れでロッカーからランドセルが音を立てて飛び出した。「机の下に入れ」。担任は倒れそうなロッカーを必死で押さえ、叫んだ。訓練通りに頭を机の下に隠し、どうにかやり過ごした。
揺れが収まり、校庭へ向かうと、避難してきた近くの住民が「津波が来る。もっと上へ逃げろ」と声を上げた。泣きじゃくり、歩けなくなった下級生の手を引っ張り、坂を駆け上った。
「あの時無視していたら…」
被災者が語る3月11日 「別世界に来た感覚だった」
震災遺構として保存されている南三陸町の防災対策庁舎。奥に見える白い建物が高野会館=2月8日、宮城県南三陸町 [写真番号:1145850]
東日本大震災当時12歳だった大沼ほのかさん。「南三陸のためにできることは何でもやりたい」と話す=2月8日、宮城県南三陸町 [写真番号:1145851]
民間の震災遺構として残されている高野会館=2月8日、岩手県南三陸町 [写真番号:1145854]
高野会館の前で、震災当時の状況を説明する佐々木真さん=宮城県南三陸町 [写真番号:1145852]
高野会館建物上部には「津波浸水ここまで」と書かれた青い表示がある=2月8日、宮城県南三陸町 [写真番号:1145855]