
その日は、いつもと明らかに様子が違った。
2021年2月16日の横浜市長定例記者会見。東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(当時)の女性蔑視発言について見解を問われると、林文子市長(当時)は、せきを切ったように語り始めた。
「私は、意思決定の場に女性がいるのは大変重要だと思います」
高校卒業後、1965年に繊維メーカーに就職した。男女雇用機会均等法が施行される21年も前のことだ。その後、転職を重ね、自動車販売の営業職でトップセールスを記録。BMW東京社長、ダイエー会長、東京日産自動車販売社長などを歴任した。
輝かしいキャリアを持つが、続く言葉には、過去の苦労がにじんだ。「女性が仕事の場にいても、意思決定をするということは誰も考えていなかった時代」「ただ、忍耐という言葉で、我慢し続けて生きてきた」
熱弁は、10分以上にわたった。いつもは、淡々と質問に答える林氏からすれば異例の対応だった。
最後、質問した記者にこう言い残した。「こういうことは別の場所で語りましょう」
2021年8月の市長選で落選し、政界を退いた林氏。あの日の会見で語り切れなかったことは何だったのか。話の続きを聞くため、私は本人の元を訪ねた。
前横浜市長の林文子氏は現在、県内企業3社の社外取締役を務めるなど、慣れ親しんだ経済界に再び身を置く。役員や管理職への女性登用など、組織の多様性推進が企業の価値向上に必須となる今、女性実業家の先駆者から学べることは。林氏の経験を聞いた。(聞き手・佐藤 百合)
─高校卒業後、1965年に繊維メーカーに就職した。男女雇用機会均等法が施行される21年前だが、苦労したことは。
「当時、女性は男性の事務的アシスタントになるのが普通で、会社も『女性は5年ぐらいで家庭に入るのが良い』と、堂々と言っていた。私は、男性たちが責任を持って仕事をしているのに憧れて、そういう仕事がないかと模索した」
「職をいくつか転々として、31歳の時に巡り合ったのが、車のセールスだった。販売成績が問われる仕事だから、男女は対等。この仕事との巡り合いはすごく幸運だった」
─セールスの仕事にたどり着いた経緯は。
林文子・前横浜市長 女性活躍の先駆者、模索続け道開く
横浜市長時代、会見で話す林文子氏=2021年4月 [写真番号:1144744]
インタビューに応じる林文子氏 [写真番号:1144745]