1945年5月29日の横浜大空襲。体験者が少なくなる中、惨禍を末永く伝えるため、過去の神奈川新聞に掲載された体験記を再録します。
現代の観点では不適切な表現もありますが、掲載当時の表現、表記をそのまま掲載しています。(※)で適宜編注を入れ、改行や句読点などを追加しました。
斉藤節子さん
1975年6月2日掲載(体験部分のみ抜粋)
斉藤節子さんは、西区での戦争体験をきのうの事のように話す。
母親が負傷したため、県立第一高女(現平沼高校)の仮救護所へ付き添って入った。4階までの教室から廊下まで約400人が収容されていた。軍関係ではないので、常駐の医師は一人もいない。衛生兵と、たまにくる看護婦だけが頼りだった。薬はもちろん、包帯もなく、ボロきれで代用した。
たまたま自宅を焼かれて、ここに待避していたという女医が、ある夜、真っ暗な“病室”の片すみで、ロウソクの火を頼りに、麻酔もかけず、少年の足の切断手術を行った。少年の悲鳴が今も耳についている、と斉藤さん。手当てができないので、傷口に無数のウジがわいた、
「隊長ドノ、突撃です。自分を行かせてください」と、わけのわからぬ軍人言葉で叫ぶ負傷者もいた。やがて破傷風が流行し始めた。感染するものらしく、朝、目が覚めると、「きのうも三人が…」といったふうに亡くなっていった。
また別の救護所では野戦病院さながらで、まだくすぶっている死体が並んだ上を、急ごしらえの担架で次々と重傷者を運ぶ。この作業は動員をかけられた若い人たち。慣れないのと、疲れのためつまずいて、重傷者を死体の中へ誤って落とす。すると、「もう、それはいい。つぎ」。と非情もへったくれもない状況だった。