相模原市の本村賢太郎市長の会見の発言から自治体の長が示すべき姿勢、あるべき条例の姿を考える。

ヒトラーを信奉する男が人種差別に抗議する市民の列に車で突進し、弁護士助手のヘザー・ハイヤーさんが命を落とした「シャーロッツビルの悲劇」。当時のドナルド・トランプ大統領は事件直後、記者会見で「いろいろな側から示された憎悪、偏見、暴力を非難する」と語って批判を浴びた。
批判の理由は、白人至上主義者やネオナチを名指しして非難しなかっただけではなかった。わざわざ「いろいろな側」と言い添え、レイシズムに対抗する側にも非があるかのようににおわせていたのだ。差別主義者と反差別の人々を「どっちもどっち」と同列に扱えば、差別にも理があるかのような印象を与えることができる。そうして自分を支持している白人至上主義者たちを擁護してみせようという魂胆がのぞいていた。
案の定、喝采が湧き起こった。
〈トランプのコメントは良かった。自分たちを攻撃しなかった。単に、国が団結するべきだと言っただけだ。自分たちについては具体的に何も言わなかった〉
あいまいな態度で中立であるかのように振る舞えば、レイシストに付け入る余地を与え、勢いづかせるだけだ。同じく、人権施策審議会の韓国籍の女性委員への攻撃を批判しようとしない本村市長がかみしめるべき教訓がここにある。
もちろん本村氏は自身がヘイトスピーチをしているわけでも、差別主義者を擁護しようとしているとも思わない。だが、沈黙は容認であり、差別に加担しているも同然だ。何より、市民と地域社会を守る自治体トップとしての責務を放棄していることになるからだ。