11年前の東日本大震災から続く災後の日常をどう紡いでいくか。世間の関心が薄れゆく中、あの日の苦難を糧に前を向く人の姿を千葉県旭市にみた。(渡辺 渉)

「津波が堤防を越えてくることはないはずだ」。11年前のきょう、千葉県旭市飯岡地区で被災した宮本英一(73)の判断には、いくつかの根拠があった。
「九十九里浜はリアス海岸ではない。高潮対策の離岸堤もあるし、砂浜も広い」。かつて勤務していた合併前の旧飯岡町では建設課長を務め、海岸保全にも携わった。海辺で育ち、小学6年だった1960年に起きたチリ地震の津波も経験していた。「あの時も津波は堤防を越えなかった」
半世紀前の記憶をたどりつつ、地元の区長(自治会長)だった宮本は荷物を持って避難する近隣の人たちにこう話していた。「大丈夫。堤防を越えることはないでしょう」。大津波警報を告げる防災無線が繰り返し避難を呼び掛けていた。
バリバリバリバリ。2011年3月11日午後5時半ごろ。海水が大きな音を立てて板塀を壊しながら自宅の敷地に勢いよく流れ込んできたのは、妻と庭にいた時だった。家の脇に隠れようとしたが、あっという間に流され、体が水中に引き込まれた。海水を飲みながら100メートルほど流されたものの、何とか浮き上がることができた。
「離れるなよ」。必死に叫ぶと、妻はこう返した。「私はもうだめ」
水深は2~3メートルほどだった。つかまれそうなものを探すと、建物の間に挟まった屋根の残骸が視界に入った。その時に頭をよぎったのは、1993年の北海道南西沖地震で津波に流された少女が、屋根に乗って助かったという奥尻島の映像だった。
死ぬなら…
津波そのとき 千葉・旭市から(中)紙一重の経験を次代へ
防災資料館の管理人として自らの体験を伝えている宮本英一さん=2月、千葉県旭市 [写真番号:1041700]
震災時の津波で浸水した海辺にある旭市防災資料館。津波避難ビルにもなっている=2月 [写真番号:1041706]
津波が突き抜けた宮本さん宅の玄関付近(宮本さん提供) [写真番号:1041713]
居間に掛けられていた時計は家の外で見つかった。針は5時34分を指したまま止まっていた(宮本さん提供) [写真番号:1041714]