満州開拓団の一員として幼少時代を過ごした樋口達さん(83)=横須賀市=は30年にわたり現地訪問を繰り返し、亡き仲間たちの供養を続けている。しかし、終戦70年の今夏に現地で目にしたのは何者かに壊された日中友好の碑の残骸だった。反日感情の高まりから壊されたとみられるが、中国を「第二の故郷」と呼ぶ樋口さんは再建とさらなる友好関係づくりを目指している。
長野県富士見村(現富士見町)出身の樋口さんは1941年、国策で満州(中国東北部)の黒竜江省木蘭県に集団移民した。9歳だった。
敗戦で日本が無条件降伏を受諾した後、立場の入れ替わった現地住民とは何度も衝突した。土地を奪い返され食糧難となり、赤ちゃんは注射で命を絶たれたという。樋口さんは、引き揚げまでの1年間を「飲まず食わず状態が続き悲惨だった」と回顧する。
開拓団長だった父の隆次さんが多くの地元住民と良好な関係を築いていたが、一部中国人から襲撃され犠牲となった仲間もいたという。千人で入植した開拓団は引き揚げ時は病死などで600人に減った。
戦後、日中関係が改善されると、仲間を供養するために現地の国民学校の同窓会で「木蘭友の会」を結成。85年から日中友好を兼ねて1年おきに墓参りのため木蘭を訪れ、開拓団の村があった場所には日中友好の証しとして記念碑を建立した。
当初は「日本人だけが死んだわけではない」と現地住民の視線は冷ややかで、「線香を立てるのもやっとだった」。その後も訪中を繰り返し、公園建設費や災害復興資金の寄付など地元住民への支援も続けた。顔の見える交流を途切れさせなかった。
樋口さんら兄弟3人とおいの4人は今月12日から16日まで訪中。現地の人々はやはり、手厚く迎え入れてくれた。
ところが、供養で訪れた記念碑前で全員が絶句した。あるべき石碑が、がれきの山と化していた。7月ごろに何者かが重機を運び込み壊したと聞かされ、「言葉にならないくらいがっかりした」。
「国策」の名の下に、国民が翻弄(ほんろう)される実態は今も昔も変わりない。樋口さんは「満州で亡くなった人の遺骨収拾は民間で続けてきた。当時の政府は自分たちで占領したくせに、その後は何もしていない」と憤る。だからこそ、市民レベルの交流の大切さをかみしめ、記念碑を再建するつもりだ。
日中の絆、現地に記念碑再建を 満州開拓団の記憶と誓い
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壊された日中友好の記念碑を見つめる樋口さん(左)=樋口さん提供 [写真番号:906176]
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元満州開拓団の一員として仲間の供養をし、現地住民と交流を続ける樋口さん [写真番号:906178]