空襲警報が解除され、防空壕(ごう)から出た。「工場が真っ赤に燃えていた。ひどく臭う油と熱風で息もできず、体の震えが止まらなかった」
手描きの絵を見せ、中野幹夫さん(82)が9歳の時に遭った川崎大空襲の体験を語る。今年1月、川崎市立東住吉小(中原区)6年生の授業でのことだ。
73年前、川崎の上空に飛来したB29爆撃機がおびただしい焼夷(しょうい)弾を投下した。壕内で耐え続けた恐怖。児童たちは少年時の中野さんにわが身を重ねるように聞き入った。
東京航空計器、東京兵器、東京機械、帝国通信工業…。当時、軍需工場が集積していた中原区周辺は米軍の主要な攻撃目標になっていた。壕から出た中野さんが見た、猛火に包まれた工場は空襲で木造倉庫群が消失するなど壊滅的な被害を受けた東京航空計器だった。
跡地は戦後に接収され、米陸軍出版センターに。1967年には、近隣の同小児童が基地関係者の車にひかれ死亡する事故があった。歩道橋建設の強い要求を通じ、基地の一部返還に至った。75年の全面返還後「川崎市中原平和公園」ができた。公園内には今、平和館が立つ。児童は、自分たちの学校のすぐ前にある平和公園と平和館ができるまでの来し方を知った。
中野さんは市民グループ「川崎中原の空襲・戦災を記録する会」(中島邦雄会長)メンバー。同小の寺内哲教諭(41)が2011年から毎年、メンバーを招き、6年生の授業で空襲体験を語ってもらっている。
同会から区内の空襲について話を聞く機会があり、授業で体験を伝えてほしいと頼んだ。「目の前に話し手がいることで、現実的に戦争について考えてもらえる」と寺内教諭は話す。
「(焼夷弾による猛火で)夕焼けを見るだけで怖い」「あんころもちを食べられたら、いつ死んでもいい」「へびをうばいあい、食べた」-。空襲や疎開時の体験を聞いた児童は印象に残った言葉を書き出す。
寺内教諭は「実体験のある人の語りには説得力がある。子どもたちには心に引っ掛かった言葉を手掛かりに議論するよう促している」。
体験談を聞いた後、グループで学習し、再び体験を語ってくれた人を招いて学んだことを発表している。
「平和公園は、戦後の思いが詰まった公園なので、その思いを引き継いで発表できたと思う」。そう感想を記した児童がいた。「記録する会」の対馬労(つとむ)事務局長(70)は「自分たちが日々生きている地域で過去に何があったのか学んでほしい。体験談を聞き、生じた疑問を考え続けてくれればうれしい」と、平和への思いを次代に託す。
寺内教諭は言う。「戦争とはどういうものか、平和とは何か。答えは容易には出ない。ただ、体験者の言葉は心に残る。考え続ける種を今後も子どもに植え付けていきたい」。空襲の体験を語れる人は年々少なくなっている。できる限り体験者の肉声を子どもたちに聞かせたいと思っている。
「今、日本は戦争への道へ進んでいるのではないでしょうか。戦争の悲劇を繰り返さないためにも、自分たちから意見を発信しなければいけないと思います」。憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認などを盛り込んだ安全保障関連法が成立した15年に、児童が記した感想だ。
「戦争って、なくすのはなかなか難しいのかな」。そんな感想が出たのは、北朝鮮のミサイル発射が続き、全国瞬時警報システム(Jアラート)訓練が騒がれた昨年のことだった。
子どもたちは体験者の言葉を深く受け止め、社会の動きを素直に、細やかに見ている。寺内教諭の実感だ。
◆川崎の空襲被害 川崎では1942年から終戦まで約20回の空襲があった。45年4月15日に最大規模の空襲が行われ、B29爆撃機など200機余の米軍機が飛来、焼夷弾と爆弾合わせ1110トンが投下され、市街地全体と南武線沿いの工場が壊滅的な打撃を受けた。一連の空襲で焼失家屋約3万7千戸、罹災(りさい)者は10万人を超えた。米国戦略爆撃調査団報告書では1520人の死者が出たとしている。
横浜大空襲73年(9)戦禍の伝承、肉声だから心に残る
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授業で「川崎中原の空襲・戦災を記録する会」の中野幹夫さんの体験談を聞く児童ら=川崎市立東住吉小学校 [写真番号:899134]