太平洋戦争の激戦地パラオで戦争末期、民間の手で行われた「三菱パラオ造船所」の建設工事の責任者が記した手記などが横浜市内で見つかった。造船所をめぐっては現地に派遣された技師らが犠牲になったとされるが、詳細は不明。新資料からは戦況悪化の中、島に取り残され、戦火に巻き込まれた様子がうかがえる。
資料は三菱重工横浜造船所(横船、現横浜製作所)課長で建設責任者だった若松長氏(ちょうし)さんの手記や電文、図面など。横浜製作所金沢工場(横浜市金沢区)で昨夏、社内文書を整理中に見つかった。
パラオは軍事交通上の重要拠点で造船所の建設と経営が横船に委託された。電文によると造船所は横船の分工場に位置付けられ、社内募集に応じた技師、工員ら八十数人が派遣された。
派遣直後の1944年3月8日付の電文では、米軍の空襲が南洋諸島で激しさを増し「パラオにおける艦船修繕事業は内地一造船所の数倍の仕事を担当しなければならない状況」と建設を急ぐ様子を伝えている。
完成へ向け最終段階となる海とドックを仕切る扉船(とせん)の建造が始まったのは6月。空襲激化と物資不足で16日後の7月6日に工事は中断された。
この時、若松さんは物資調達のため日本へ戻っており、8月23日付の「パラオ派遣員動静」と題した社内文書には赤鉛筆で「十一名パラオニ於(おい)テ召集、軍務ニ服ス」「六八名動静不詳」と記されている。すでにパラオ周辺の制空制海権は奪われ、技術者らは帰国するすべがなく、若松さんがパラオに戻ることもできなかった。
資料をとりまとめた元横浜製作所長で三菱日立パワーシステムズエンジニアリング社長の牧浦秀治さんは「戦火が激しさを増す中、大勢の仲間を残してきたことに苦しんだことだろう」と思いをめぐらす。
現地での犠牲についてはOBの回顧録「横船の思い出」に「再び内地の土を履んだ者は、派遣者七九名中(終戦前帰還者を除く)僅(わず)か二四名(職員一、工員二三名)、他は戦病死と伝えられる者三六名(職員五、工員三一名)、行方不明一九名(工員のみ)、計五五名が異郷の露と消えたと信ぜられる」と記されている。
造船史に詳しい元東京海洋大学教授で国土交通省運輸安全委員会委員の庄司邦昭さんは「戦争末期に造船所が民間によって造られていた事実自体が知られていない。パラオには造船所跡が残されており、多くの犠牲を払った史実を伝えるためにも保存するべきだ」と話している。
南洋パラオの造船所、民間人の犠牲 米軍の攻撃を語る資料
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三菱パラオ造船所の責任者だった若松さんの社内文書。1944年8月の社内文書(右)には「六八名動静不詳」と書かれている [写真番号:895276]
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米軍の空襲を受けるパラオの日本軍の施設=1944年3月(米海軍) [写真番号:895277]